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1 ご聖誕から神の召命まで
(1920・1・6~1935・4・17)


(1) 文先生の誕生 

   文鮮明先生は、1920年の陰暦の1月6日に、韓半島の平安北道定州郡徳彦面上思里2、221番地で、文慶裕氏と金慶継夫人の次男として誕生された。兄が1人、姉が3人、弟妹が5人ぐらいおられたといわれている。
   平安北道は韓半島の西北部を占め、東は咸鏡南道に連なり、南は平安南道に境し、西は黄海に臨み、北は鴨緑江を隔てて中国の旧満州地方に相い対する。
   定州は道内でも沿海地帯に位置する。この方面は干潟地の発達が著しく、坦々(たんたん)たる水田地に、巨象の伏せるが如き陸化島が散点する。定州の前面一帯は海岸平野が打ち続いて農産海産ともに豊富で、背後の低山地は自動車の往来が容易なため、交通繁く、市況活発であった。
   また定州は国境に近く、平壌と新義州間の要地であったため、古来からしばしば外国からの侵略を受け、日清戦争の時には市街の大部分が焼失した。
   さらには、1900年ごろになると、平壌の人口の約3分の1の1万4000人がキリスト教徒となったが、定州においては、人口のほとんどを占める2万余の人々がキリスト教徒となった。

   文先生の誕生された上思里は、定州市の中心地から約8キロぐらい離れた農村で、全部で家が15戸ぐらいの小村で、そのうち9軒が文氏姓であったため、通称「文村」と呼ばれた。そこは低い山と山の谷間のような所で、幅が400メートルぐらいあり、長さが1キロメートルぐらいの、ゆるやかな傾斜とともに田畑が続くところであった。

(2) 文家の家訓 

   文家には先祖から代々伝わる一つの家訓があった。それは家を訪ねて来る人を良く接待してあげることであった。先生の祖父の時代にも寒い冬の日に乞食が来て、「何かを恵んで下さい」と物乞いする声が聞こえると、直ちに、自分のお膳を持って行って全部与えてしまうのであった。
   特に先生が生まれ育った当時、日本に追われて数千、数万もの人々が列をなして満州に移民していくために定州を通 過する時、いつも世話をしてあげておられた。
   往来する多くの人々の接待で文先生の家はいつも人がいっぱいであった。先生の母は、そのために、いつも朝早くからご飯を炊かれていた。そのようにしても、お金は受け取らず、すべて奉仕されたのである。

(3) 文潤國氏

   3月1日は、韓国にとって特別な日で、1919年3月1日の独立運動の記念日である。当時、韓国は日本の占領下にあって、韓国人はこぞって抗日運動に立ち上がり、自分たちの自由と国家の独立を確保しようとした。しかしその時、多くの人々が犠牲となった。

   文先生の祖父である文致國氏の末弟の文潤國氏も、当時抗日運動に参加し、その犠牲者となった一人であった。彼はキリスト教会の牧師であったが、自分自身の財産のみならず、息子や兄弟たちの家族の財産まで蜜かに売り払って、そのお金を国家の独立運動の資金に当てていたのである。
   そのために、彼は家族・親族からの激しい非難の的となった。文先生も子供のころに「お前のおじいさんの弟は、気が狂って一家の財産を全部賭(と)博(ばく)で使い果 たしてしまったんだよ」と聞かされていた。

   彼は日本の特高警察から追われ、幾度となく拷問を受けた。彼は1945年、解放後に故郷に帰ってきたけれども、人々の眼は冷たかった。そこで彼は、一言の弁明もなく、静かに故郷を後にして立ち去っていった。この時、もし彼が、「私は韓国の独立運動のためにその金をささげたのだ」と打ち明けていたならば、彼の偉大な愛国心を記念して銅像が建てられたかも知れなかった。
   しかし彼は、そのことに関して一言も語ろうとはしなかった。その後、彼は乞食同然の姿で、安住する家もないままにジプシーのように移り住みながら生きていった。
   ところが彼の死後いかなる生涯を送ったかを書き記した日記帳が発見され、すべての誤解が解かれ、彼の名誉が回復された。そのように文先生の祖父の中に、神のみぞ知る涙と痛みの中に生涯を送った人物がおられたのである。

(4) 幼少時代 

   文先生は、7歳から13歳まで、当時の韓国において、一般家庭の子女たちが通 って学んだ書堂で、漢文を中心に修学された。そこで千字文、幼文初習、史略、明心宝鑑、小学などの本を読まれた。 そして、14歳になって定州にある私立五山普通学校に入学され、15歳には定州公立の普通学校に転学された。

   文先生は、小さいころから神秘的な素朴なところ、人よりも自然の方に抱き込まれて、1日を朝から晩までズーッと過ごされた。故郷の山河にあるすべての動植物、自然界を教材として、人間の内的な側面 を成長させていかれた。自然界は、1年にわたってそれぞれの美しさを見せる。春の山に取り囲まれたこじんまりとした園の中で、陽(かげ)炎(ろう)が揺れて立ち上がる。
   そうして、大きい木に寄り掛かって自然の中で昼寝をし、山で育つ山菜を取って食べたりしながら、思いっ切り、心ゆくまで飛び跳ね、遊んだ。その故郷の自然は、先生が一人の人間としての情緒を育てるための基本的な教材を提供してくれたのである。

   文先生は幼い時から、好奇心・探究心が人一倍旺(おう)盛(せい)であった。山へ行けば、一方からながめただけでは満足せず、反対側へ行ってみなければシャクにさわる。どんなことがあっても向こうの山に上がってみて「ああ、こういうふうになっているのか」と鑑賞しないと気持ちが悪い。前の方を見ただけでは気持ちが悪い、そういう性質を持っておられた。
   ところが、そこに行けばその山の向こうには何があるのか、また行ってみなければ気になって生きられなかったと言われる。雪が降る晩などは先生は寝られなかった。その刺激がすばらしい。夜を通 してずっと雪の中を歩かれた。

   文先生は何をやるにも真剣にされる。それが専門のように考えられる。そのために自分は生まれたような真心を込めてされる。そして、一つやり始めると絶対にやめない。着手するとそれと一緒になってしまうのであった。 先生は鳥もたくさん捕まえられた。鳥を見れば、たいてい厚い母性愛を持っている。カササギという鳥も、人間が来てその巣を取ろうと木に登ってくると、母親のカササギが来て人を追い払うのである。
   それで、カササギは木に巣を作るときも、一番高い所に作るのである。先生は、その高い木にあるカササギの巣のようなものを見ると、好奇心が発動した。気になるのである。カササギは木の枝をくわえて、高い木の上にかける。
   そしてぬかるんだ土をくわえていって、継ぎはぎをする。その次に、塵(ちり)の混じった枯れ草のくずを持ってきて入れ、そうして巣を暖かく作る。またどこからか綿のような暖かそうなものをくわえてきて作る。

   そのようにして作った巣に、雌が入っていってそっと卵を産むのである。先生はそこに関心があって、毎日のようにアカシアの木に登られた。初めは、カササギたちが大騒ぎをする。しかし先生が毎日のように登ったり降りたりしても何もしないため、彼らは怖がらなくなった。
   すると、カササギたちが来て「クワッ、クワッ」と挨(あい)拶(さつ)する。そうしてカササギの繁殖過程を見守った。卵を産んでから後に雛(ひな)が孵(かえ)るが、実に早く育つ。そして、愛らしくきれいに育つ。それを見ながら情が移る。
   そうしてカササギの雛が育って巣を離れ、分家するようになる。その雛が全部育って巣を離れて飛んでいくとき、いかに悲しかったか。それを見て幼い先生は泣かれた。
   また、その故郷には小さい川があり、どじょうや鰻(うなぎ)や蟹(かに)や、ありとあらゆる魚がいた。それで毎日小川に行って魚を捕まえて過ごされた。そのときはまだ分別がなかったので、穴を掘って水を汲んで魚を育てようと、そこに入れたりもした。魚は水の中でみな生きると思ったのである。ところが一夜過ぎてみると魚が死んで水の上に浮かんでいた。
   「なぜ死んだのか。精誠を尽くしてお前を生かそうとしたのに、なぜ死んだのか。人の事情もわからずに。お前が死んだことをお前のお母さんに言ったら、泣くだろうなあ」と、その魚を見て泣かれた。「お母さんにかわって僕が泣いてやるから」、そう言いながら一人で泣かれた。 また文先生は善悪に対して敏感であった。

   人が語る言葉を聞きながら、その人が善なる立場で語っているか悪なる立場であるかを、すぐに感じとられた。天に対して至誠を尽くす、そういう人だったら、その周囲に座っていたり、見ていたりすると気持ちがよかった。逆に悪や不正義に対しては我慢できない性質であった。
   それで部落内で喧(けん)嘩(か)が起こったとすれば行かない所はなかった。悪い者がいい者をいじめた場合には先生は通り過ぎていくことができなかった。自分が請け負って、「この野郎!」、そういう喧嘩もされた。悪者が両手をついてあやまる姿を見ないと気がおさまらない性質を持っておられた。

   文先生は、大人たちが無力な子供たちに不当な行為をしているのを見た時は、地面に身を投げ出して大声で泣きながら、地面を打ち続けられた。自分の身体が傷だらけになっても、その大人たちが誤りを認めるまでは抗議を中止することはなかったといわれている。
   また、一つの村の中には自分たちの姻(いん)戚(せき)同士では何でも分けて使いながら、よその村から他の姓氏の人たちが来て生活すると、なかなか貸してあげなかったりすることがよくあった。
   理由なく不利益を押し付けられる人たちを見たとき、先生はそのまま見過ごせず、彼らの味方になった。 また、貧しくて栄養失調になったかわいそうな人がいれば、毎日、2、3里の道のりを歩いて池を探し、蛙(かえる)などを捕らえては食べさせてあげたりした。先生は幼いころから、かわいそうな人を見ると、そのままにしてはおけない性格であった。

(5)生涯の目標の模索 

   ところが文先生も年齢の成長と共に関心を持たれる範囲が地域から、民族、国家、世界、歴史へと、だんだん拡がっていった。 そして、人類の直面している現実、かかえている深刻な課題がわかってくるにつれ、人間の生涯の中で自分は何をなし、どう生きていったらいいのかという生涯の目標の模索が始まった。
「自分だけなら、偉大な博士となって、何不自由なく富貴栄達で過ごせる。
しかし、それが私にとって何なのか。数多くの不幸な人々、国、世界人類にとって何の意味を持つというのか。私がなさなければならないのは何であろうか」。
   労心焦慮する日々が続いた。特に当時の韓国は、1905年11月に乙(いつ)巳(し)保護条約が締結され、1910年8月には日韓併合条約が締結されて、韓国は日本の植民地と化していった。
   これに対し、1919年3月1日、韓国の独立を要求する抵抗運動が起こり、それが韓国全土に及び、4月になってもその運動は続いた。そのため日本はあらゆる方法・手段をもって鎮圧したために、多くの韓国の人々が犠牲となった。

   当時のことを、文先生は次のように語っておられる。 「先生の出生と少年期は、本当に不幸で悲劇的なものであった。それは先生一人が経験した環境ではなく、当時に生まれたすべての韓国人たちの悲しい運命でもあった。
   5000年の悠久なる歴史を持つ韓国であったが、国力が衰退していて日本の侵略を撃退できず、彼らの支配下で人間以下の生活をするしかなかった時代だったからである。

   少年期の感性は非常に鋭利であり、鋭敏なものである。まだ小さい時であったけれど、周辺で起こっている環境の変化に対してたくさんのことを考えながら、そうならざるを得なかった理由を知ろうと努めた。
   そのとき先生の気運を前に立てて、不幸な環境に暴力で立ち向かおうとしたなら、……恐ろしい組織を持った頭目ぐらいにはなったであろう」。
   このようなことは韓民族のみならず、世界においても展開されており、また過去の人類歴史を見ても、常にそのような悲劇が繰り返されてきた。

   このような民族、国家、世界のかかえる問題を、どのようにして解決したらいいのか。その解決のための真理はどのようにして見いだすことができるのか。12歳のころ、学校の先生にそのことを問うたときに、「聖書を読んだらいい」と言われ、聖書に触れるようになったといわれている。
   文先生は家から歩いて20分ぐらいの康村にあった長老教会に行かれた。その中で、キリスト教は、神と人間との関係を、親と子という最も深い愛と生命の関係においてとらえ、また自己を他人のために犠牲にする道を最も徹底化して教えているゆえに、宗教の中でも中核の立場にあることを悟られた。

   しかし、その聖書とキリスト教にも限界があることを悟られた。聖書を調べてみると、イエス様は最も語りたい中心的内容を語ることができないまま昇天されたことを知った。
   また、文先生が牧師に「イエス様を信ずれば、私たちもイエス様のようになれるのですか」と問うたとき、「私たち罪人はイエス様のようにはなれない」と言われ、その救いに限界があることを悟られた。
   そのために文先生は、直接、神様に真理を求めていかれた。村の後方に、頂上まで歩いて20分ぐらいかかる「南山」という小高い山があり、そこでよく祈られた。その祈られる姿を目撃した近所の小さな子供たちは「本家の兄さんが、木と草と相撲をとっているよ」と表現した。



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