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(1)蕩減路程としての荒野路程の出発
モーセ路程において、モーセとイスラエル民族が一体化すれば、21日でカナン復帰が成せるはずであった。しかし、イスラエル民族の不信ゆえに、21か月、あるいは40年という蕩減路程の荒野路程が必要となった。そのことが現代における摂理においても繰り返されることとなった。
1945年から1952年までの7年間の実体的カナン復帰の道が準備されていたが、キリスト教と民主世界の失敗ゆえに現代の荒野路程が出発したのである。彼らの失敗は人類を代表した立場での失敗であるために、人類と世界は完全にサタンが主管するところとなった。
神が共にあることができなくなったキリスト教は、霊的力と指導力を失い、分裂・形式化が進み、共産主義に利用されるところまで進んでいった。また、世界の共産化が進み、民主世界陣営の中のあらゆる分野へ共産勢力が入り込んでいくこととなった。
ここで第一次摂理において神の摂理に従えなかった人類が、第二次の延長摂理を通
して再び無条件に救いの恩恵を受けることができるという原理はない。そのために第一次における人類の失敗の罪を、文先生が蕩減復帰していかなければならなかった。
そしてサタンに主管され、摂理に対して反対する立場に立ったキリスト教と民主世界を立て直し、さらに世界に拡大していった共産世界を収拾して、人類をカナンへ導く苦難の道を、文先生が一人で切り開いていかねばならなかった。
(2)地獄からの再出発
許孝彬への手紙の事件で、文先生が李承晩のスパイだと確信を得た共産党は、自白させるためにあらゆる方法手段の拷問を行った。
その中でも3日間ずつ食べさせず、眠らせないことを、自白するまで何度も繰り返した。その間、共産党は絶えず3時間交代で先生を監視し、目をつむれば殴りつけ、眠ることを許さなかった。そのため、先生は目を開けたまま気付かれぬ
よう数分間ずつ睡眠せざるをえなかった。
そのようにしてまでも屈しない先生ゆえに、その拷問は、ますます残酷さを極めていった。その結果
、共産党は文先生に対し、半殺しのようにしてしまったため、ついに11月21日、門の外に放り出して釈放したのであった。そこを出た途端、先生は多くの血を吐かれた。しかし霊界からの援助で起き上がられた。
そのころ、大同保安署の回りをエリコ城のように7回まわれば先生に会えるという啓示を受けた弟子たちが、祈りながら回っていると、先生が放り出されてきた。その時の先生は、口も利けず、血を吐き、全身を殴られたため思うように動けず、とても生きた人間の姿ではなかった。
弟子たちは先生を教会まで連れて帰り、いろいろ治療を施し、漢方薬を飲ませ、手を尽くしたが、ついに先生は意識を失ってしまわれた。そのような姿を見ながら弟子たちは、「これでは先生は死んでしまう。もうおしまいだ」と叫びながら泣いていた。
この間、文先生が共産党の拷問を受けながら、そして意識を失い、生死の境を往来する中で、心の中で神の前に訴えられたことは何であったのか。
それは「神よ、6000年の人類歴史の中で先祖たちが犯し、人類が犯してきた罪のすべてを我に背負わせて打って下さい。片輪になろうと、自分の一生がどうなろうと、それはかまいません。ただ肉体の生命だけは残して下さい。死んでしまったなら、あなたのみ旨を成就できないではありませんか。今日までの6000年のあなたのご苦労が無に帰さないために、2000年前のイエス様の無念なる恨みをはらすために、そしてあわれな人類をこれ以上サタン世界の中で苦しませないために、どうか生きてあなたのみ旨を果
たす道だけは残して下さい」という祈りであった。
しばらくして、奇跡的に先生は意識を回復されたのである。
ところが先生は、少し起き上がれるようになると、説教を始められた。弟子たちが「まだ休んでいて下さい」と泣いてお願いしてもその言葉を聞く先生ではなかった。
前に置かれた洗面
器に血やたんなどを吐きながら祈られ、吐いた血をかき集めた手を振りかざし、説教される先生の前で、弟子たちはただ泣くばかりであった。そればかりか、新しく人々が伝道されてくると、内臓もまだ弱っている中で、彼らのために蕩(とう)減(げん)断食を繰り返されたのである。
なぜ先生はそこまで自らを顧みず、人類の救いのために尽くされるのか。それはアダム・エバの堕落以来、今日まで人類を救うために、神様がどのような愛で愛してこられたかを知ったがゆえであり、またそれを人々に教えたいがゆえであった。「神様はこのようにしてまで人類を愛してこられたのだ」と。
(3)再逮捕
そのような神の愛によって生かされた人々が、その後、教会に集ってくるようになった。金元弼、玉
世賢、金仁珠、車相淳、鄭達玉、池承道の諸氏を中心として、40名ぐらいに増えていったが、それと共にその家族と既成教会からの反対と迫害が激しくなっていった。
そのころ、共産党は漸次その体制を固め、宗教抹殺のためのあらゆる作業を進めていた。そのために、1948年2月22日午前10時、既成キリスト教団の訴えにより、先生は再び内務省に拘束されることになった。
1948年4月7日、文先生に対する公判が開かれた。先生は共産警察により頭を刈られ、手錠をかけられて法廷に現れた。そこの傍聴席には多くの既成教会の牧師や信徒たちが参席していた。
そこで文先生は社会秩序を乱したという社会秩序紊(びん)乱(らん)罪で、重労働5年の刑を言い渡された。裁判長は「最後に言いたいことはないか」と先生に尋ねられた。そこで先生は「判決文の中にある『虚構』という2文字を削除して欲しい」と要請された。
法廷を出られる時、先生は笑みを浮かべて弟子たちに手を振られ、その姿は悲壮感どころか、希望であふれていた。その時の先生の心境はいかなるものであったのか。
その第一は、神がこのような悲惨な道に愛する者を送ろうとするとき、そのような所に「行け!」と命令する神様よりも、行かせねばならない事情を持っていた神様を先に考えられたのである。
生地獄のような所へ行かねばならない自分も苦しい立場であるけれど、それ以上に苦しまれるのは、愛する者をそのような所に送らねばならない神様であった。
自分がそこで苦しめば、その姿を見てそれ以上にもっと苦しまれるのが神様であることを、文先生はよく知っておられた。それゆえに、平壌に来られてからは、いつも涙を流しておられたが、興南牢獄に行かれてからは、一切涙を流すことをされなかったのである。
そのような時はかえって神を慰めていかれたのである。「神様、心配しないで下さい。私は大丈夫です」と。
そしてまた、先生は人類の罪をとりなしていかれた。「神の摂理に従えず反逆する人類の罪を許して下さい。彼らの罪を償う道を私が歩みますから、彼らを滅ぼさないで下さい」と。
第二に、先生は監獄に入って行く時、「苦労しに行くと思うより、実力を現せるのは今からだ」という信念を持って入って行かれた。そのような最悪の環境の中にあってこそ、自分の神に対する信仰・忠誠心を現わすことができると考えられた。
第三に、先生は自分を訴えたキリスト教徒や迫害しようとする共産党の人々を考える以上に「これから入っていこうとする生地獄のような中にあって神が自分に出会わせようとしている人々はどのような人々なのか」と考えた時に、その人々に早く会ってみたいという心に満ちあふれておられたのである。
(4)興南監獄での路程
文先生は平壌の刑務所に1か月半ほど収監されていたが、5月20日、咸鏡南道の興南にあった「徳里特別 労務者収容所」に移送された。
労働する所は徳里から3・5キロメートル離れた所にあり、日本窒素株式会社が昭和2年に建てた「朝鮮窒素肥料株式会社興南工場」のあとで、第二次大戦後、北韓が囚人たちをそこで働かせるようになっていた。
徳里の収容所には約1500名ぐらいの囚人がおり、約6坪の監房に40名ずつ収容されていた。食事は3回出たが、雑穀で作った握りこぶし大のご飯と粗末な汁だけであった。収容所から工場までの3・5キロメートルの道を毎日歩いて往復したが、片道2時間かかった。労働は朝8時から夕方の5時までの8時間であった。
特に文先生が担当した仕事は、硫酸アンモニアの工場で、粉がコンベアで工場の真中に落ちるようになっていて、それをハカリにかけて袋(カマス)に詰め、貨車に積み込むのである。10人が1組になり、1日に1300袋(1袋40キログラム)やらねばならない。それができなければ食事の半分は減らされた。
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(1)僕(しもべ)の僕からの出発
1日に1300袋を仕上げるには、休んでいる暇がなかった。真冬でも汗びっしょりになってしまう重労働であった。それゆえに、座ったら朝でも皆寝てしまう。夕方帰ってご飯を食べ終ると、死人のように倒れて寝てしまう。
それほどの十字架を背負って生きながらえていく所であった。だからみんなは仕事の中でできるだけ楽な所を捜そうとした。特に40キロの袋を持ち上げるのは、みんながいやがった。
しかし、そのようにしていたら責任分担を果
たせない。だから先生は、どうしたら勝利できるかいろいろと工夫され、みんなが従わなければ一人ででもされた。そして一番きびしい辛い仕事を担当された。そうすると、みなやはり良心があるから従ってくるようになった。
そこは、どのくらい腹が減るか、ご飯がどのくらい欲しいか、それは話にならない所であった。自分の家族が面
会に来ても、来た人の顔を見るより先に、持ってきた物に目がいくのである。差し入れを食べることは共産党は許していた。だから、面
会に来て、米の粉を持ってこなかったときほど悲しいことはない。親が死ぬ より以上悲しいというのである。
米の粉を石でこねて餅をつくる。その石に粉がついていたら、他の囚人たちが競争しあってそれを取って食べる。それだけご飯が恋しい、そういう日の連続であった。
囚人は病気になっても休むことができない。なぜなら働かなければ食事を半分に減らされてしまうからである。そこにおいては、食事の半分を減らされるのは、自分が死んでしまうことよりも絶えがたいことであった。
だからご飯が欲しいために、足を引きずりながら工場まで行き、気力だけで働く。そうして帰る時になると心は希望にあふれている。夕飯を迎えるのが最高の希望である。それで力ない力で夕食を食べ始めると、その途中で死んでしまうのである。
そうすると、回りの囚人たちの間でけんかが起こった。今死のうとする囚人のご飯を狙っていたのである。ある者は、死んだ人間の口の中に入っているご飯を引き出して食べるのである。
そのような中で文先生はいかにして乗り越えてこられたのか。先生も同じ状況下にあるため、その囚人たちと同じようにご飯を恋い慕う思いがこみ上げてくる。その時に、先生は「これほどにご飯を慕うけれども、自分はそれ以上に神を慕うか」、毎日、比較対照しながら自問自答して乗り越えていかれた。
一握りのご飯のために牢獄に入ってきたのではない。万人の救いの道を開拓するために入ってきた。何よりも神を愛さなければならない。この収容所にきてしばらくすると、どんな健康な人間でも、極度な過労と飢えとさまざまな病気で2、3年で死んでいくことがわかった。
共産党はそのことを知っていて5年の刑を下したのは、初めから先生を労働させながら殺してしまうつもりであった。そのため、先生は5年間生き抜く力を何らかのかたちで補給しなければならない。
それで、そこにおいては何よりも貴重な食料の半分を飢えた囚人たちに与え、残りの半分で生きる決心をされたのである。なぜそうされたのか。
それはそのような牢屋での生活をしてみなければわからないと語られる。死にかけた囚人たちに生命よりも貴く思う食物を与えた時、先生を見つめる彼らの視線が、先生にどれだけの生きる力を与えたことか。精神的慰めになったことか。
またそのような中で朝は定められた時間より早く起床されて、祈祷をされ、体を清め、体操をし、夜も12時以前に休まれることはなかった。日曜日は休日でみんなは死人のように倒れて寝てしまうが、先生は休まれなかった。
それゆえに、文先生が眠っている姿を、誰も見たことがなかったのである。さらに差し入れの食物や衣服があれば、それらをみな他の囚人たちに分け与えられ、厳寒の北韓の冬にあっても同じ1枚の古びた薄い服を着ておられた。
このように文先生は、神の前に僕(しもべ)の僕となって誰よりも神のみ旨のために仕え、さらには人類のために文字通
り僕の僕となって仕えていかれたのである。その理由は何であろうか。それは失敗した摂理を蕩(とう)減(げん)復帰する道は最下のところから、すなわち、旧約以前の時代から上がっていかねばならない原理があるゆえ、文先生は、あえて、自らをそのような立場におかれて出発していかれたのである。
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(2)毎年模範労働賞を与えられる
僕の僕から僕の段階に上がられると、文先生は与えられる食事を全部食べられるようになった。ところがそれまで半分の食事で働いていたのに、全部食べるようになると、増えた半分は、他から与えられたものであるという感覚でしかなかった。その心の慰安というものは、何とも言えない力強い慰めとなった。
また、朝出発するときは、「自分は働くために行くのではない。理想の世界を旅行するために行くのだ。そして今日は、昨日までには味わえなかった新しい世界を体験するために行くのだ」という気持ちであった。働いているときには、肉体は激しく動いても、自分の心は未来の世界に行っておられ、休憩の合図の鐘の音も先生の耳には入らなかった。
そのようにして文先生は誰よりも熱心に働き、そして最も困難な仕事をされ、その上でノルマを達成されるため、1500名の囚人がいる中で、毎年、模範労働賞を与えられた。
このことは原理的にはどのような意味があったのであろうか。復帰原理は蕩(とう)減(げん)条件を立てて摂理を進めていくのであるが、その蕩減条件とはサタンを屈伏させる条件である。そのためには、地上のサタン側にあった共産党をも屈伏させる条件が必要であった。
そしてこの段階においては僕(しもべ)の立場を勝利し、歴史的には旧約時代を蕩減復帰する蕩減条件が必要であった。文先生が囚人として労働する中で毎年表彰されたのは、まさしくそれらの勝利の証しであった。このことにより、次の新約時代を蕩減復帰する伝道の摂理に進むことができたのである。
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(3)12人以上の基台を復帰
摂理から見た興南監獄での目的は、第一次摂理でくずれたキリスト教の基台に代わる基台を蕩減復帰することにあった。そのためには、いきなり伝道の摂理を進めることはできず、僕(しもべ)の僕からの公式路程を歩んで上がっていかなければならなかったのである。
しかし監獄での伝道と言っても自由にみ言を語ることができない状況にあった。共産党が一番恐れているのは囚人たちが結束して暴動を起こし、火をつけたりして脱走しようとすることであった。そのために厳しく囚人たちを監視していた。
また囚人たちの中にも情報提供者をつくっていたのである。したがって、み言を思うがままに語ることができない中で、生命かけて従ってくる弟子を復帰していかねばならなかったのである。
そのための一つの方法が霊界動員作戦であった。すなわち神が同情し、霊界が援助・協助せざるをえない内的・外的蕩減条件をいかに立てるかということであった。その結果
として、後に興南収容所の総班長になった朴正華氏や金元徳氏など12名以上が先生に従うようになったのである。
朴正華氏は1948年12月30日に収容所に送られてきた。初めのころは、仕事の要領も勝手もわからないため苦しんでいると、文先生がそばにやってきて手取り足取り教えられたのである。そうするうちに、夢にある老人が現れて、毎日指導してくれる青年がいかなる人物であるかを教えたので、朴氏は翌日文先生の後ろ姿を見つめていると、突然先生が振り向かれて「あなたは昨日、何か夢を見なかったか」と問われたのである。
そのうちに文先生は、洗礼ヨハネのこと、イエスの十字架問題などのみ言を語られたが、かつてキリスト教徒であった朴氏は、その内容を受け入れることができなかった。しかし、その度に夜になると老人が現れ、「なぜその方の言うことを信じないのか」と霊的苦痛を与えたため、朴氏は苦しみ抜き、悔い改めると回復した。
ところが翌日になると文先生が近づいてきて、「昨日の夜、何か起こらなかったか」と必ず言われたのである。そのような体験を経ながら朴氏は先生の弟子となった。興南監獄において文先生は、弟子たちに原理の内容を語るとき、「円和園の理想」という表現で語られた。
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(4)文先生の道
一囚人であった朴正華氏は、それまで総班長をしていた人物が出監したため、その後任者に推選された。朴氏はその権限で文先生にできるだけやさしい楽な仕事を担当させた。
すると先生は、「あなたはなぜ私を、こういうサタンがざん訴するやさしい仕事の所におくのか。後でサタンが『興南監獄で生き残れたのは、朴という人物を通してやさしい仕事をしたからだ』とざん訴するのだ」と、厳しく叱られたのである。
復帰の道は、適当に、自由にやればいいのではない。必ず蕩(とう)減(げん)復帰の原理に基づいて歩まなければ、摂理を進めることができないことを先生は教えられたのである。
ところが文先生も弟子たちも共に蕩減復帰の道を歩むのであるが、先生の道と人類の歩む道には大きな違いがあるのである。それは何なのであろうか。先生もあまりに無理をされたためにマラリアにかかり1か月間苦しまれた。マラリアは悪寒を感じて震えだし、やがて高熱が出て苦しみ、その後平熱となることを3日、4日ごとにくり返すのである。
先生は高熱のときには顔が真っ赤になり、熱が引いたときにはまっ青な顔でブルブル震えながら仕事をされていたため、朴正華氏は病気を治すための準備を整えて、先生に休んでいただくよう必死に懇願した。しかし先生は一切それに応じようとはせず、仕事を続けられたのである。
日がたっても回復する兆しはなく、毎日3・5キロの道を往復する途中、足がふらつき、空回りをして何度となく倒れられた。そして高熱と震えに悩まされながら、体の平均をとることもできず、手も思い通
りにならない中で働かれる先生に対して、朴氏は泣きながらその裾(すそ)をつかまえて休んで下さるよう哀願したのである。
そして無理やりにでも先生をお連れしようとしたら、口も思うように話すことができない中で先生は叫ばれた。「サタンよ、去れ!
今、私が休んだら、今後将来においてサタンがざん訴するようになるということを何度も言ったのに、お前はまだそういうことを言うのか!
天の摂理を進めるために、どうしても私がやっていかねばならない道があるのだ」。
文先生は、なぜそれまでしてなさなければならなかったのであろうか。すべての人類が神のもとに帰っていくためには蕩減復帰の道を越えていかなければならないけれども、人類の歩む道はどんなに蕩減の道を歩むといってもそれは条件蕩減の道である。しかしすべての人類の救いの道を開拓する先生の行く道は、条件蕩(とう)減(げん)ではなく完全蕩減の道なのである。
先生の立場には二つの立場がある。その第一が、神と一体となった神の代身としての立場であり、第二が、堕落人間と同じ人間としての立場である。第一の立場である神の代身の立場ゆえに、先生は人類からいかに迫害され反対されようとも、絶対的に人類の救いのために尽くされ愛される道を行かれるのである。そのことによって人類に対する神の愛を知らしめようとされるのである。
第二の立場である堕落人間と同じ人間としての立場で歩まれる道とはどのような道なのであろうか。神は堕落人間がいかに不信し反逆しようとも、堕落人間の救いのために今日まで一貫して、例外なしに愛を投入してこられた。そのような愛に反逆してきた人類が創造本然の世界に復帰するには、今日まで人類が犯してきたすべての罪を蕩減し、また人間がいかなる天の命令を受けようが、自分がどのような状態にあろうが、例外なしに絶対的に神を愛したという道を越えていかねばならない。しかし神の前に犯してきた罪のすべてを償うためには、堕落人間の生命をいくら祭物としてささげても償い切れるものではない。また、その蕩減のためのいかなる道をも歩み切ることができる信仰も持ってはいない。
すなわち堕落人間では堕落人間の救いの道を切り開くことはできないのである。そのために堕落人間の救いの道を代わりに切り開く人間が必要になってくるのである。そのために2000年前に遣わされた方がイエス・キリストであった。
それゆえ、その使命を引き継がれた先生は、マラリアにかかろうが、生死の境にあろうが、いかなる中にあっても神を絶対的に愛したという完全蕩減の道を行かねばならなかったのである。そこには一切例外が許されない。その道を生涯かけて貫いていかねばならないのである。もし万が一、途中で一度でも失敗した場合には、堕落人間の条件蕩減による救いの道が断たれてしまうのである。そのようなサタンとの真剣な闘いを勝利していかなければならなかったのが先生の道であった。
(5) 解放の摂理
文先生は、このようにして第一次摂理で失った基台を興南路程を通して復帰したために、解放される摂理が展開された。金日成を中心とする北韓は1950年6月25日未明、38度線の全域にわたって攻撃して出た。その奇襲攻撃で28日にはソウルが陥落、その後、釜山を目ざして進撃していった。一方、国連の安保理事会にて北韓への軍事制裁が決議され、国連軍が投入された。その総司令官がダグラス・マッカーサー元帥であった。特に9月15日の仁川上陸作戦が成功し、9月28日にはソウルを奪還、10月1日には興南の南の元山に向かっていた。
後退を余儀なくされた共産軍は、収容所においては囚人たちを戦場に送り、あるいは処刑していったのである。興南収容所においても囚人番号順に呼び出されていった。文先生の番号は596番であったが、10月13日には595番まで呼び出された。ところがその後興南工場が爆撃され、文先生は10月14日の午前2時に解放されることとなった。
このことはまさに奇跡中の奇跡ではあったが、蕩(とう)減(げん)復帰原理からみれば当然の結果
でもあった。サタンは他の誰よりも文先生の生命を奪おうとした。しかしそれができなかったのは、サタンの前に一切、ざん訴条件を奪われる歩みをされなかった結果
であり、サタンを屈伏させる蕩減条件を立てて勝利されたがゆえの結果であった。
(6) 再出発の摂理の失敗
文先生は興南路程を通して摂理再出発のための蕩減路程を勝利された。そこで先生は獄中で弟子となった人々と、興南監獄に入監する前にいた弟子たちをまとめ、再出発の基台にしようとされたが、獄中の弟子たちは数人を除き、摂理の使命を捨ててしまった。また興南から10日かけて徒歩で平壌に戻ってこられたとき、先生を待っていたのは玉
世賢、池承道ハルモニ、金元弼氏などの数人だけであった。
さらには文先生の興南での勝利によって、アメリカを中心とする民主主義世界が第二次大戦終了後の失敗を蕩減復帰できる機会を与えられた。大戦終了後、東欧が、そしてアジアが次々に共産化されていく中で6・25動乱が起こった。
民主世界は遅ればせながら、ようやくにして共産主義の何たるかを知り、大戦終了後の自分たちの判断がまちがっていたことに気づいたのである。ここにおいて神の摂理から見れば、共産圏の解放まで行かねばならなかった。その鍵を握っていたのがマッカーサーであったが、トルーマン大統領はそのことがわからず、イギリスの首相アットーリーの進言も加わって1951年4月にマッカーサーを解任し、53年7月に休戦協定を結んでしまうようになるのである。
神の摂理から見れば、エバ国家のイギリスから生まれたアベル国家がアメリカであった。したがってアベル国家に対し、神の願う方向へ国家的次元で母子協助しなければならなかったのがイギリスの使命であった。
ところが実際は、サタン側の立場で母子協助することになってしまうのである。このようにして民主世界はまた使命を果
たすことができず、それ以後、共産主義によるさらなる多くの犠牲と悲劇が世界にくり拡げられることとなるのである。
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