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(1) 子女の時代の出発
神の祝福が一世を中心になされてきたが、子女の時代に入り、文先生ご夫妻の子女様をはじめとして、祝福家庭の子女たち、すなわち二世の祝福がなされていった。1981年5月に文誉進(ムンイエジン)様・洪珍輝(ホンチンフイ)様、1982年1月に文孝進(ムンヒョウジン)様・洪蘭淑(ホンナンスク)様、1984年2月に文仁進(ムンインジン)様・朴珍成(パクチンソン)様と文興進(ムンフンジン)様・朴薫淑(パクフンスク)様の祝福がなされた。
さらには、地上天国建設のために、文先生は1980年まで宗教的精神的伝統基盤を確立された土台の上で、その精神に基づく横的物質的伝統基盤造成のための摂理を展開されていかれた。1981年11月に、第10回科学の統一に関する国際会議の中で、国際ハイウェイ建設の構想を提唱された。
それは日本と韓国をトンネルで結び、中国からアジア、ヨーロッパ、アフリカへ、さらにはアメリカ、南米へと続く世界的な国際ハイウェイで、これを通
して東西問題、南北問題などの解決をはかり、地上天国において人体における血管のような役割を果
たすものである。それを受けて、12月10日には日本で委員会が発足し、まず日本から大陸に向けて、日韓トンネルの掘削工事が開始された。
(2) 文先生に対する裁判
アメリカでは、宗教団体の財産は最高責任者の名義で管理されるのが普通
で、このことはアメリカの憲法によって保証されている。そのため、統一教会も、その資金を文鮮明先生の名義で銀行に預金していた。
ところが、1981年10月に、1973年から75年の3年間、文先生名義の銀行預金の利息について納税申告を怠っていたという脱税容疑で、ニューヨーク州連邦地方裁判所に起訴されたのである。
また、その預金を担当していたアメリカの伝道責任者の神山威氏も起訴された。
教会側は裁判長による裁判を希望したが、裁判所はそれを一方的に拒否して、選ばれた一般
の陪審員による陪審裁判を強制したのである。しかも検察官が指定した通訳の不手際によって誤解を招き、神山氏は偽証罪に問われることになってしまった。
文先生が有罪ならば、アメリカの多くの宗教団体が脱税で罪に問われなければならないのに、なぜ文先生が起訴されたのか。それは文先生をなき者にし、アメリカから追い出したいとする人々がいたからであった。1982年7月16日に第一審の連邦地方裁で、懲役10か月、罰金2万5000ドルの有罪判決が下された。
そのような闘いの中で、文先生はアメリカを滅ぼさないで、神の摂理の方向へ導くために、1982年5月17日から「ワシントン・タイムズ」を発刊させた。それは文先生が裁判闘争をなしている最中になされたことであった。また同年7月1日には2075組、10月14日には6000組の国際合同結婚式がなされ、世界中から集まったすべての若き青年男女の教会員たちのために、休まれる暇もなく心血を注いでいかれた。
(3) 荒野40年路程の最後の3年路程の出発
1983年になると、文先生は、1945年8月15日から1985年8月15日までの期間が荒野40年路程の期間であり、この荒野路程を終結させるべきことを訴えられた。モーセ路程において荒野40年の中で多くの不信と反逆があったけれども、カナンを目の前にして、モーセとイスラエル民族が一体化していくならばカナン復帰をなすことができた。
それと同じように現代においても、実体的カナン復帰が成せる時に何度も失敗してきたが、85年を前にして、最後の3年路程(83年、84年、85年)を先生と弟子たちが一体化していくならばカナン復帰をなすことができる。そのために先生は幹部の代表を集め、最後の3年路程の決断式をなして出発した。
(4) 文興進様の供え物
1983年は、大韓航空機の撃墜事件、北韓によるラングーン爆弾テロ事件など、特に韓半島をめぐり、緊迫した事件が起きていった。11月下旬ごろ、シカゴにおいて第12回のICUSが開かれていたが、終わるや否や、先生は12月に韓国の各地で大規模の勝共大会を行うことを弟子たちに指示された。
しかし、大きな会場を借りようとしても、すでに予約でつまっていたり、反対されて会場が借りれなかったりで、現実的には不可能であることを先生に報告した。最終的に大会は全国8大都市で大成功を収めたが、サタンは先の一体化しなければならない最も重大な時に、一体化できなかったことをざん訴してきたのである。
8大都市の最後の光州大会が行われた12月23日、アメリカにおいて文興進様が交通
事故に遭遇された。2000年前、サタンはイエス様の生命を奪おうとして直接戦ったが、勝つことができなかった。
そのために、イエス様と一体化しなければならないイスラエル民族の不信仰の条件を持って、イエス様の生命を奪ったのであった。現代において文先生はその責任を全うされたがために、サタンは直接、手を出すことができなかった。
しかし、弟子たちがどんな中にあっても一体化しなければならなかったにもかかわらず、不信仰したその条件を取って、先生の生命を奪おうとしたのであった。
現実的に、勝共大会に先生の生命を奪おうとしたエージェントたちがいた。しかし、始まる前から多くの人々が詰めかけていたため、彼らは会場に入ることができなかった。そのためにサタンは文先生の代わりに、先生に特に忠誠を尽くしておられた次男の興進様を奪ったのであった。
(5) 愛勝日
文先生は韓国におけるすべての公的行事を全うされてアメリカに帰られた。興進様は一命は取り留めておられたが、もはや助からない状態であった。もしそのまま霊界に行かれてしまった場合には、モーセ路程でイスラエル民族がモーセと一体化しなかったために、外的イスラエルがカナンに入ることができなかったように、人類はカナン復帰を目の前にしながらカナンに入ることができない。
そして、人類が悲惨な荒野の道をまた行かなければならないことを、誰よりも文先生は知っておられた。そのために文先生は、助かることのない興進様をどのような立場で霊界に送るかを真剣に考えられた。文先生は地上での使命を成し終えて後、霊界に行かれ霊人たちの救いの道を切り開いていかねばならない。その使命を興進様に与えられたのであった。
それゆえ、興進様は人々の不信ゆえに霊界に送られるのではなく、文先生によってその代身者として全権大使として送られることになったのである。そのために先生は、愛する子女を年若くして悲惨な立場で失う悲しみ以上に、神と人類の救いのために喜んでささげる心情基準と絶対的愛の基準を立てられたのである。
それが愛勝日の基準であった。1984年1月2日に興進様が昇華され、翌1月3日に文先生は愛勝日を宣布されたのである。このことにより、一体化しえなかった罪を愛によって許され、カナン復帰に至る道を再び与えられたのであった。
(6) ダンベリー収監
1984年5月14日、アメリカの連邦最高裁は文先生の上告申請を却下した。先生は国外に出てしまわれれば、服役の必要はなくなる。しかしアメリカがそのようにして追い出したとなれば、アメリカがサタンに打たれ、世界までもが危機に瀕(ひん)するため、文先生はアメリカの罪を蕩(とう)減(げん)するため、ダンベリーの刑務所へ入っていく決意をされたのである。
5月16日には、そのようなアメリカの罪を許す愛の基準を立てられ、愛天日を宣布された。
収監される前日の7月19日、文先生は声明を発表された。「私はいかなる罪も犯していないにもかかわらず、政府権力の濫用と宗教的迫害の犠牲にされています。
全米の何千名もの牧師たちが、私に対する政府の迫害に反対し、『宗教の自由』の名にかけて、私とともに一週間入獄するという宣誓をしています。もし、アメリカを霊的眠りから覚醒させるという神の目的にかなうならば、私はアメリカの監獄に喜んで入るつもりです。
今日、政府はかつてないほど教会活動を侵害しています。現在、裁判所には『教会と国家』の問題に関する数千件の訴訟事件が持ち込まれています。私はこの国のために、ただ一つの目的を抱き続けてきました。すなわち、アメリカの道徳心を高め、神の意志を果
たす能力を増大することです。
この目的に向けて、統一運動は数億ドルのお金をアメリカのために投資してきました。皆様が私の仕事の範囲を理解されれば、どうして合衆国政府からおよそ2万5000ドルを脱税するために、私がアメリカに来たと本気で信じられるでしょうか。
まさしくその始めから、この裁判は脱税問題ではなく、政府による宗教の内部活動への侵害でした。私が有罪判決を受けたのは、私の宗教上の信念と実践による以外の何ものでもありません。
私は今、世界の統一教会本部をダンベリー刑務所へ移動させ、そこで私はこの国のために祈り、かつ、働くでしょう。私は人類歴史上最も重大な時期に、『宗教の自由』のための闘いを導き、アメリカの霊的覚醒に火をつけるための道具として、神が私を用いて下さっていることに感謝します。アメリカに神の祝福がありますように」。
7月20日の午後11時、文先生と神山威氏は、コネチカット州にあるダンベリー連邦刑務所に収監された。
(7) 僕(しもべ)の僕からの出発
入監すると医者によっていろいろと身体検査された。神山氏は、「そこで先生にされたことが、あまりにも胸痛く、心臓が破裂する思いであった」と証している。そして刑務所の服に着替えねばならなかったが、それは出監した人が置いていった使い古しの服で、下着はシミだらけのものであった。次のものが支給されるまで、3、4日、それを着ていなければならなかった。
ベッドルームには毛布もシーツもなく、ランドリーの中から汚れたものを持ってきて使わねばならなかった。先生は「いいんだよ。ここから出発するんだよ」と慰められた。食事も決しておいしいものではなかったが、「北韓よりもこれはいいよ」と言われた。
「これはまずい」とか「あれを食べたい」とか、一言も口に出されることはなく、すべてに感謝して過ごされた。しかし、そのような中で、先生は「妻が心配するから、これは言うんじゃないよ、神山」と言われたことが何度もあったのである。
先生たちの部屋は電話ボックスの隣で、ボックスにはほうきやモップ、バケツなどが置いてあり、またT型のほうきで押されてきたゴミがいつも置きざりにされてあった。夏には扇風機の風でゴミやほこりが舞い上がるのである。
先生はそのような所を率先して清掃された。食堂にも使い終った汚いぞうきんがたくさん入れられたバケツのところに行き、1枚1枚きれいに洗って積み上げておかれた。するとそれを他の人が使ってまたバケツに捨てていくのである。先生は64歳なので係官は「もう掃除はしなくてもいい」と言っても、先生はすべての掃除をされた。
また先生が語られたみ言(ことば)の本を読まれながら、自ら感動して涙された。先生は夜の12時過ぎに休まれ、3時には目を覚まされてベッドの上でエビのようになって祈られた。そして囚人たちを伝道していかれたのである。
(8) 荒野40年路程終結のための摂理
文先生は、第一次の摂理の失敗以後、それを蕩(とう)減(げん)復帰するための路程を歩んでこられた。すなわちキリスト教とアメリカを中心とする民主世界の失敗を蕩減復帰しようとしてこられた。
ところが荒野40年路程の最後の最も重大な時期をダンベリーの中で過ごさねばならなかったのである。しかし、先生はそこから荒野路程終結のための摂理をなしていかれた。
そのためにまず、全米の30万の牧師たちに原理のビデオテープと文先生の説教集などを配布された。そして原理の研修ゼミに参加するよう呼びかけた。その結果
、4万名の人々がゼミに参加し、7000名以上の牧師たちが日本と韓国の統一教会を訪問するに至った。
また、アメリカを中心とする民主世界の失敗のために共産世界が拡大していった。それを蕩減復帰するチャンスが6・25動乱であったが、休戦協定を結んでしまった。そのためにベトナムがその代理戦争の場となって多くの犠牲が出、血が流された。そこにおいても対処のしかたを誤り、インドシナの共産化を許してしまった。
そのため、民主世界と共産世界の対決の場が中米に移ってきたのである。そこが共産化された暁には、アメリカの中に38度線が造られるようになっていく。そうなれば世界人類の運命は悲惨なことになってしまう。
そのためにレーガン大統領は共産化したニカラグアの反政府軍であるコントラへの援助をしようとした。しかし、その法案が民主党が与党の議会では成立しない。
そのような時、文先生は、1985年の6月6日付のワシントン・タイムズを通
じて、コントラに対し、1400万ドル援助することを発表した。その他、多くの人々がダンベリーを訪れ、文先生からの指示を受け、さまざまな摂理が獄中からなされていった。
それらのことを通して、文先生は単に自分の教団だけのために生きようとする人物ではなく、むしろアメリカと民主世界と全人類を救うためにご自分を、また統一教会を犠牲にされて歩んでおられることが、多くの人々に理解されていくようになった。
(9) 荒野40年路程の終結
このようにして、ダンベリーの中から先生がさまざまな摂理を展開する中で、先生を中心としたご家庭と、祝福家庭の二世と、一世と、教会員とが一つとなり、統一教会とキリスト教会とアメリカを中心とする民主世界が一体化した荒野路程終結のための条件が立てられた。そして、8月15日を越えた16日に一勝日が宣布されたのである。
文先生は、1985年8月20日に釈放された。その日の夜、「神と自由のバンケット」が開催され、全米から60以上の教派から2000名の牧師と聖職者が参加した。そこで文先生は「神のみ旨」と題して講演された。そこにおいて先生とキリスト教の代表者が一つになる場面
は、まさに荒野路程を終結させるにふさわしい情景であった。
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