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霊的集団・禹明植集団の『祝福二世相談室』の勧誘活動にご注意ください
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禹明植集団の『祝福二世相談室』

『救済論の問題点』を暴く(上)(2009-1)

『救済論の問題点』を暴く(下)(2009-1)

似非「祝福二世相談室」の誤りを正す(上)(2009-5)

似非「祝福二世相談室」の誤りを正す(下)(2009-6)


 最近、禹明植集団が『祝福二世相談室』を名乗り、祝福二世に対する勧誘を行っています。

  これは、本部が設置した「二世の信仰と祝福問題に関する『相談室』」とは全く関係ありませんので、間違って連絡したりすることのないように注意して下さい。

  <『祝福二世相談室』の詳細>


「中和新聞」2009年6月号掲載【森三雄氏特別寄稿・第1弾(下)】

 霊的集団「氏族協会」のホームページ
似非「祝福二世相談室」の誤りを正す
御言を意図的に削り、何度も引用する悪質さ!
岡本言説の解明する“鍵”は「パンドラの箱」を開ける鍵


―― 「中和新聞」1・2月号、および5月号で、『救済論の問題点』(岡本言説)に対する批判を掲載しました。
 彼らは自身のホームページ(HP)「祝福二世相談室」で反論(第一弾~第二六弾)をしていますが、その反論文は無記名です。名前のない反論文は、筆者として誠実さが見られず、無責任極まりないものです。逃げ隠れせず、正々堂々と名前を書いて反論すべきです(森)。


一、無知蒙昧な「統一原理」批判

(1)『原理講論』に対する矛盾した価値認識

 岡本氏らはその反論で、『原理講論』の「絶大なる価値を決して否定していない」「宗教の『教典』の中で最も優れた『教典』である」と認めているとします。しかし「過渡的段階性」(部分性)や「人間的要素の混入」が含まれるとし、「完成段階としての文先生の『御言』と『原理講論』を比較した場合、そこに『聖書』と同様の神学的(教典論的)課題が存在している」(「はじめに」反論-02)と主張します。
 彼らは、褒めては貶(おとし)めるやり方をします。『救済論の問題点』では、『原理講論』は聖書の聖句を多く引用するので「まるでキリスト教の一つの派に過ぎないかのように見える」(26頁)とこき下ろしていながら、今度は「絶大なる価値を決して否定していない」と述べます。こんな矛盾した発言がよくできたものです。

 (2)「御言」と『原理講論』は違うのか?

 岡本氏らは、「『原理講論』も『御言』も、共に『文先生の御言』であるというのは、『聖書』の逐語霊感説を信じているファンダメンタルなクリスチャンと同様に……現実を無視した非科学的で乱暴な見解であり、『原理講論』は決して、文先生が劉孝元先生の手を握って書いたものではありません」(「第三弾」反論-05)と述べ、「御言」と『原理講論』の違いを主張します。
 聖書は、イエス様が亡くなった後で編纂されました。しかし『原理講論』は文先生が「一字一句」を鑑定した本です。聖書の編纂と同じではありません。聖書がイエス様によってつくられたなら「逐語霊感説」は正しいとされたでしょう。上述の反論は、「聖書」と『原理講論』の編纂の違いを認識しない無知蒙昧な批判です。
 ちなみに、ブルトマンはその著『イエス』で、「私達はイエスの生涯や人となりについては少ししか知らない」(未来社、16頁)と述べ、人々に衝撃を与えました。共観福音書(AD60~90年代)は、客観的に歴史的事実を記した書ではなく、「はじめに教団(宣教)ありき」の立場で編纂された原始教団の信仰の所産であり、ゆえに福音書から史的イエスを復元することはできないと言うのです。
 

二、カットした、悪質な「御言」の引用

 それでは、どちらが真理を語っているのか、文先生の御言で検証しましょう。

原理のみ言を全部、本を読みながら講義するのです。『原理講論』は劉(孝元)協会長が書いたのではありません。一ページ、一ページ(先生の)鑑定を受けたのです。私が成したことに手をつけることはできません。ありとあらゆるものが、皆そろっているのです。間違っていたとしても、それを知らないのではありません。間違っているところ何ヶ所かを、そのままにしておかなければならないのです。すべてを教えてあげるわけにはいかないのです」(『霊的集団「氏族協会」の誤りを正す』270頁)

 『原理講論』に対し、文先生は「ありとあらゆるものが、皆そろっている」とし、「間違っているところ」は「何ヶ所か」と言われるのであって、教義の本質面(原罪や血統の概念)で「間違いがある」と言われているのではありません。もし原罪概念に「間違い」があれば、そのとき、放置されないでしょう。「堕落論」も「一ページ、一ページ(先生の)鑑定を受けた」と読むべきです。
 岡本氏らは、悪質にもこの御言の罫線部分をカットして引用し、ホームページ(「はじめに」)や『100ヶ条の提題』(177頁)で取り上げますが、その関心は「間違っている」という言葉のみの抽出にあります。「何ヶ所か」も、やがて「間違っている部分」が「数多く含まれている」(同188頁)に誇張され、その挙げ句、「真理の一部分」である「古い時代の原理講論」(同432頁)に「しがみつくな」と言う始末です。しかし文先生は『原理講論』の破棄ではなく、「『原理本体論』が出てきた後に、『原理講論』は、その中にすべて入っています」(「ファミリー」2009年4月号、12頁)と語られています。岡本言説における自称「純粋に文先生の『御言』にのみ基づく」研究(「第七弾」反論-13)とは、上述のごとくです。

 (1)「『御言』全体の中にある普遍的真理(原理)」とは何か

 岡本氏らは次のように述べます。「『原理講論』が、先生がつくった御言の剣、天的な宣言であるとの表現はありますが、『神様の心の中にある主流の憲法』については、ただ『原理』とのみ語られており、それが劉孝元先生の書かれた書物としての『原理講論』そのものを指しているというよりも、文先生の語られた『御言』全体の中にある普遍的真理としての『原理』を指していると捉えることのほうがより的確な解釈」(「はじめに」反論-02)
 ここでも『原理講論』と「御言の中にある原理」との相違を必死で説こうとします。では、普遍的真理としての『原理』とは何でしょうか。「偉大な統一教会の『原理』」(『天聖経』「宇宙の根本」1725頁)と御言にあるように、それは文先生が鑑定した『原理講論』であり、鑑定を受けていない岡本言説の言う「成約原理」ではありません。もちろん、『原理講論』には「保留部分」がありますが、この「保留部分」と『原理講論』の内容には対立や矛盾はなく、共に「原理」です。
 
(2)姑息な知恵

 岡本氏らは、「“文先生は八つの分野においてチャンピオンである”との内容も、『原理講論』からの引用ではなく、『平和神経』13番、16番のメッセージからの引用であり、『原理講論』の文字表記が『御言』と完全に一致している(一体である)のかどうかを論じている文脈においては、全く論点がズレている」(「はじめに」反論-03)と反論します。 しかし、「八つの分野においてチャンピオン」といわれる根拠は『原理講論』です。『原理講論』の「一ページ、一ページ」は文先生の「鑑定」を受けたのです。それでレバレンド・ムーンの『原理の本』(『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』57頁)と言われるのです。『原理講論』の表面的な「文字表記」が御言の「文字表記」と完全に一致しているかどうかを「一体」と言っているのではないのです。「論点がズレている」と書くのは姑息な知恵です。反論や批判は詭弁によらず、もっと意味あることを言ってもらいたいものです。
 
(3)「比喩や暗号」はメシヤが解く

 岡本言説では、『平和神経』に「天国へと導いてくれる鍵を持って来られる方」(329頁)とある「鍵」は、「再臨主として来られた文先生の使命について述べている」(「第四弾」反論-07)と反論します。そして「天国へ導いてくれる鍵」と「比喩や暗号で語られた文先生の『御言』を解く鍵という概念とは全く異なる」とし、「神の立場で語られた文先生の『御言』を、『復帰された天使長』の立場で解明する人物が登場しなければならない」(同)と主張します。
 岡本氏らは「比喩と象徴」(暗号)を解く「鍵」の必要性を語り、あれこれ詭弁を弄しますが、それがどういう意味か、誰が解くのか、「文先生の御言」で検証してみましょう。

「聖書を中心とする各教団の主要な経書は、人間始祖の堕落によって無知に陥った人間たちを、再び神様の前に帰す道が暗示されている秘密の啓示書です。したがって、重大な内容が比喩と象徴で描写されているのです。比喩と象徴は、天から来るメシヤによってのみはっきりと明らかにされます。したがって……レバレンド・ムーンの教えを通して、新旧約の聖書全体に貫き流れる神様の救援摂理に関する天の秘密が、明確に現されているのです」(『平和神経』282~83頁)

この御言にあるように「比喩と象徴」(暗号)は、天から来られる「メシヤ」によってのみ「明らかにされる」のであり、「復帰された天使長」の立場の人物によって暗号が解読されるのではありません。堕落して「御言」を失ったのはアダムです。ゆえに、御言はアダム(メシヤ)が取り戻すのです。岡本言説の解明する「鍵」は、パンドラの箱を開ける鍵です。


三、2000年のキリスト教史における神学問題

 岡本言説は、「『原理講論』の表記をもって、2000年のキリスト教史における神学問題が、あたかも全て論じ尽くされているかのような言い方は、明らかに神学的無知を曝(さら)け出したもの」(「はじめに」反論-03)と反論します。
 「宗教の『教典』の中で最も優れた『教典』である」と言っていたにもかかわらず、『原理講論』に対して何と無知なことを言うのでしょうか。具体的に論駁しましょう。

 (1)イエスの先在性と復活、および原罪について

 既存の神学は、イエス様がアブラハムより先にいたという「イエスの先在性」を説き、それはヨハネによる福音書第1章の「言葉(ロゴス)」賛歌が示すように、世の始まりまでさかのぼり、「神」と等しき存在者であるとします。現代人の理性では信じがたい使信(メッセージ)です。また「死人の復活」では、ブルトマンが「史的な客観的な出来事」と捉えないで「実存論的」に「主観的に解釈」(自己理解)し、バルトが「客観的な出来事」として「信じる」と論争した「復活者イエス」の問題、そして「原罪」(善悪の果を取って食べる)についてもそうですが、分子生物学の時代の現代人にとって理性的に不可解なこれらの「啓示」を、『原理講論』は「キリスト論」「復活論」「堕落論」で見事に解明しています。これらはボンヘッファーの言う「聖書の使信に対する非宗教的な解釈」です。
 ちなみに、「復活」と「原罪」について、遠藤周作とめぐり会い、カトリック信者になった安岡章太郎氏(芥川賞作家)と井上洋治氏(司祭)の著『我等なぜキリスト教徒となりし乎』(光文社)で、安岡氏は次のように述べます。

「はっきり言って、いったん死んだ肉体の復活というようなことは、あり得るべきものとは、僕は思わない」(89頁)、「もう一つの難問は『原罪』です。人間は生まれながらに罪を背負っているといわれても、それはそうかもしれないが、そんなことを言って、それでどうなるのかという正直な感想があります」(92頁)

『原理講論』は、その他「三位一体論」や「空中再臨」など、多くの神学的難問に対し、それを「知性の犠牲」を強要して「信ずるべき事柄」としてではなく、「宗教と科学が一つの統一された課題」として理性的に解いています。『原理講論』には、2000年の歴史を持つキリスト教を統一する内容(八つの分野のチャンピオン)があるのです。
 
(2)統一原理による「カトリックとプロテスタントの統一」

 次に、キリスト教の統一に関して、文先生の御言で判断しましょう。

「キリスト教も、世界的な頂上で旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)を一つにするには、統一原理しかないのです。そのように、歴史においてこれまで不可解だった聖書の内容を明らかに解明しているので……その道をたどっていかざるを得ないのです。統一せざるを得ないのです」(『男性訪韓修練会御言集』222頁)

キリスト教を統一するには、統一する神学内容がなければなりません。それが統一原理です。しかし岡本言説は、「統一原理と『原理講論』を混同してはならない」(「公開討論会」2006年2月21日)と必ず難癖をつけます。詭弁術は相変わらずです。

 (3)神学者や科学者が探求してきた「新しい自然神学」

 岡本言説の無知蒙昧な主張は次のとおりです。「森氏は……その他、カント的神認識を批判した、ティリッヒの存在論的な神概念を取り上げ、統一原理に対する洗礼ヨハネ的神学であったと述べていますが、そのことと、『救済論の問題点』が指摘している『原理講論』の問題点とは、全く論点がズレており、『原理講論』には『カントの神認識の問題点』や『ティリッヒの存在論的神概念』と文先生の思想との関連について説明した箇所はありません」(「はじめに」反論-03)
 
1 『原理講論』(御言)と「カント哲学」の関連性

 カントは「存在者の存在目的」を否定し、因果の法則による神(第一原因)の存在証明を「独断論の妄想」(『純粋理性批判(中)』岩波文庫、164頁)とし、経験の「対象の領域外」(同158頁)と批判します(第一原因の原因は、と無限に続く)。そして「神の実在を、最高善を可能ならしめる必然的条件として要請されねばならない」(『実践理性批判』岩波文庫、250頁)とします。このカント哲学は、自然神学(神の存在論的証明)を否定し、神認識は信仰からという「福音主義」の哲学化です。
 カント哲学と同様、福音主義神学の「客観的存在に根拠をもたない信仰による神認識」は、神を心情の枠内(家庭的四位基台に根拠をもたない個人が信じる主観的観念)に幽閉し、自然界をもっぱら無神論や唯物論の独壇場にさせます。これは知性の怠慢です。神様と、疎外されている人間とを解放するために、なぜ「勝共理論」(弁証法的唯物論の批判と克服)が重要か、それを理解すべきです。「勝共理論」の根源である『原理講論』の「創造原理」は、ニュートン時代から神学者や科学者らが探求している新しい自然神学(存在の原理)です。
 また、『原理講論』の「キリスト論」(創造目的を完成した人間とイエス)から見ると、「創造原理」はバルトらの「福音主義神学」(キリスト中心主義)を包摂します。
 文先生の御言は、創造目的(存在目的)に対し「主体と対象があれば、必ず目的があって方向性があります」(『天聖経』「宇宙の根本」1773頁)、「今日では、物理学が発達し、すべての原子にも意識があるという……この理論は、統一教会の二性性相原理のみ言と同じです」(同1774頁)、「原因がない結果は、あり得ません。因果法則を否定する科学論理というものは、あり得ない」(同1784頁)と述べています。
 
2 『講論』(御言)と「ティリッヒの存在論的神概念」の関連性

 偉大な哲学者や神学者は二つに分かれ、一方は自然神学を攻撃し、他方は弁護してきました。ティリッヒは、バルトの福音主義神学に対し「神を超自然の領域に幽閉している神学」「認識の基礎に信仰をおく不合理な信仰主義」と批判します。彼は、究極者(神)を「存在自体」であり、「存在の力」(「万物の中にある存在せしめる力」「万物を目的に導く力」)とします。この「存在の力」とは『原理講論』の「万有原力」のことです。
 そして「存在の力として神はすべての存在と存在の総体(世界)とを超越する」(『組織神学』1巻300頁)と述べ、「存在自体の構造は、それが他のすべての事物の運命であるように、神の運命となる」(同299頁)とします。この「存在自体の構造」とは「創造原理」の四位基台です。ハイデガーが「〈存在〉とはなんであるか?」(『存在と時間(上)』岩波文庫、23頁)と問う、その存在です。
  ティリッヒ神学の「存在の力」に関して、御言は「万有原力は、神様の本質的力をいうのです」(同1794頁)、「すべての存在に内的作用の力を起こすことができる本然の宇宙力がある」(同1771頁)と述べています。
  以上のように『原理講論』には、すべての哲学や神学を統一する内容があり、『救済論の問題点』が言うような一宗一派の教えではありません。論点はズレていません。「天的宣言」と言われる『原理講論』は、現代神学思想の最高峰です。後に「原理本体論」が出れば驚嘆します。





「中和新聞」2009年5月号掲載【森三雄氏特別寄稿・第1弾(上)】

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似非「祝福二世相談室」の誤りを正す
キリスト教の「性質原罪論」の問題点を克服する統一原理「堕落論」
―― 岡本氏らは思想転向者であり、思想戦における敗北者

一、「人間の堕落、その罪の起源と諸問題」

    1995年、反対牧師の『原理講論』批判の代弁者、飯干晃一氏(故人)は、自著『イヴは淫乱だったか?』で次のように述べました。

    「キリスト教は、人類始祖のこの神への不服従を人間の原罪と呼んだ。しかし、じつのところはこの不服従だけが罪ではない」(79頁)

    確かに、性質(精神性)が原罪なら、いろいろな性質があげられます。それでプロテスタント神学はいろいろな「性質」の中から、「罪の本質」とは何かを問います。神学者によって「罪の本質」は相違しますが、利己心、誇り、不信仰、不従順、不服従などとします。いずれにせよ、罪は内的な性質(精神性)と見るのがプロテスタントの原罪観です。

(一)プロテスタントの罪概念

    ヘンリー・シーセンは、「罪は行為となって外に表われる以前に、すべての人の内に、性質として存在している」「外に表われた行為は、それが悪の性質に根ざしている」「刑法は犯罪の行為そのものよりも、その動機にもっと関心を寄せている」(『組織神学』403~404頁)と述べます。
    そして、罪の概念を「罪が実際の行為だけに限られるべきではなく、その中から罪が起こってくる状態をも含む」(同)と規定します。聖書で言う「暗くなった知力」「邪悪なむなしい思い」「恥ずべき情欲」「悪い言葉」「汚れた知性と良心」「邪道に陥った意志」など、これらは腐敗した性質の源から出てくる徴候だと見ます(同405頁)。
    そこで、ヘンリー・シーセンは「キリスト者は、神の律法から離れるのは自分のうちに堕落した性質があると考えて、実際の罪の行為よりも、もっと深くそれを悔い改める」(同404頁)と言うのです。しかし、『原理講論』が指摘しているように、篤信者が「悔い改め」ても、後から後から「罪の思い」(「肉的に入ってくる罪悪」187頁)が湧いてくるのはなぜか、という問題がそこにあるのです(十字架の救いの限界性)。また、人間がそのような「罪ある存在」になぜなったのかという、より根源的な「『罪の根』の根とは何か」という問題があります。

 (二)罪の本質について

    ヘンリー・シーセンは、罪の本質について次のように述べます。

「罪の本質は利己主義である。何が罪の本質的原理であるかを、決定するのはむずかしい。『アウグスティヌスとアクィナスは、罪の本質を誇りであるとし、ルターとカルヴァンは、その本質を不信仰であると考えた』。しかし、これらはいずれも、罪をその究極の性質にまでつきとめていない。聖書が、敬けんであることの本質は神への愛である、と教えている以上、罪の本質は自己への愛である」(『組織神学』406頁)

     このように、「罪の本質は利己主義である」とします。そこから他のすべての罪が起こってくるというのです。このような見解の追従が、岡本言説であるのは一目瞭然です。

(三)「文鮮明先生の御言」研究

(1)「自己中心は堕落の動機」

    同じく文鮮明先生(真のお父様)も

「悪とは、この世界への利己心の顕現であります。神の利他的な与える原理は、神ならぬ利己的な奪う原理へとゆがめられてしまったのです」「悪の根源はサタンであります」「彼の動機は利己心でありました。彼の利己心から悪と罪の源が出てきたのです」(『御旨と世界』266頁)

と語られます。ヘンリー・シーセンとの一致点は「罪の本質」「悪と罪の源」が利己心(堕落性本性)であるという点です。異なる点は、

  1. ヘンリー・シーセンは、「悪の根源」のサタンと、人間の関係を明らかにしていない。
  2. 御言は、サタンの利己心とは「動機」であり、利己心(堕落性本性)を「原罪」とは述べていない。
  3. ヘンリー・シーセンは「自由意志」によって堕落した(409頁)と述べるが、御言は「非原理的な愛」によって堕落したとする。つまり自己中心は動機であって、「自由意志」で堕落したのではないとする(『原理講論』127頁)点です。

(2)「対象との関係」(「与える原理」と「奪う原理」)

    文先生は、

「我々人間のすべての特質は、神から来ているのであります。我々は、人間には利己的な傾向があるということを知っています。これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。この事実はあなたを驚かすかもしれませんが、しかし、神は人間と宇宙とを創造される前は、たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたということを理解しなければなりません。しかしながら、神が創造に着手されたその瞬間……神は、今や、御自身のためではなく、その対象物のために生きるようになったのです」(『御旨と世界』262頁)

と述べます。
    「御言」にあるように、「たった一人」の時と「対象物」がある時の相違を認識しないと、「神御自身が自己中心であられた」を誤解してしまうのです。対象との関係は「与える原理」であって「利己的な奪う原理」ではありません。対人関係において、「利己的な奪う原理」をつくったのはサタンです。堕落人間は「与える原理」(心に神の律法)と「利己的な奪う原理」(肢体に罪の律法)が熾烈に闘っているのです(心と体の分裂、ローマ人への手紙7章23節)。

(四)プロテスタントの「性質原罪論」の問題点

    プロテスタントの「内的な性質」に原罪があるとの見解には、多くの神学的問題があります。人間の堕落性が、先祖から受け継いだにしろ、習慣や経験のうちに固着したにしろ、すべての人間に原罪があることは事実です。しかし、

  1. いかにしてその罪が発生したのかという問題が未解決のままです。また、
  2. 神がそのような「罪への傾向性」を持つ人間を最初から造ったのかとの疑問があります。もしそうならば、人間は永遠に救われないし、社会から絶対に悪と罪はなくならないことになります。しかし、罪を裁く神は悪と罪の根源ではありません。それで、
  3. 「罪の気質」がどのようにして「アダムの性質の中に入り込んだのか」という疑問が生じます。また、
  4. 罪が「内的な性質」にあるという見解には、ヘンリー・シーセンも指摘しているように「神に責任を負わせ、人間を罪のとがから解放することになってしまう」(『組織神学』408頁)

という問題点を内包します。それゆえ「性質に原罪がある」といえないのではないかと言うのです。なぜ、文先生が性質(自己中心)を「堕落の動機」とし、「原罪」と言われないのかを明確に知るべきです。

    飯干氏の著書『イヴは淫乱だったか?』には、上述の問題意識はありません。いや、ないどころか、むしろ救われない現実を認め、「人類は絶えず罪を犯すものである」(140頁)と言う始末です。このような「性質原罪論」は、プロテスタント神学がそう見ているからであり、岡本言説にも同様の問題点があります。岡本氏は、一応「神義論の迷路」(『救済論の問題点』86頁)と言うには言いますが、やはり「自己中心性をもった個の実体の確立という『個体的段階での堕落(第一祝福型の堕落)』として起きている」(同87頁)と強弁します。ゆえに、なぜ心に罪が生じたのか、神がそのような心を造ったのか、という問題が残ります。

    堕落性本性(自己中心)がどのように発生し、どのようにしてアダムの性質の中に入り込んだのかに関して、結局のところヘンリー・シーセンは「一体、どのようにして、この初めの汚れた思いがきよい存在者の心の中に起こったかはわからない」(『組織神学』409頁)と正直に述べます。ところが、「内的な『動機・性質』としての原罪」(「第五弾」反論-11)と述べる岡本氏らは、「わからない」と正直に言うことをしません。

    以上のように、プロテスタント神学の性質原罪論には多くの問題があり、そう断言できないと言うのです。それで、W・E・ホーダーンは、「人間の病」の根源こそ「精神的なもの」であるが、「しかしそれがどのようにして始まり、どのようにして伝えられていったかということになると、アウグスティヌスの、アダムとその罪の遺伝についての教義を、学ぶ必要がある」(『現代キリスト教神学入門』47頁)というのです。

(五)「堕落論」による統一

    御言によると、原罪(血統的な罪)は淫行(結果)であり、ホーダーンのいう「精神的なもの」とは利己的な愛(原因)です。この愛が「罪の根」の根です。堕落とは、この「愛によりもたらされた結果」なのです。原罪論の統一とは「容易なわざではない」が、一方の罪の遺伝説を退け、他方の心理的分析だけを受け入れることではありません。それは、原因である「堕落の動機」(心理的分析)と、結果である「原罪」(生物的遺伝的側面、血統的な罪)の双方を「動機と経路」として解明した、統一原理の「堕落論」によるキリスト教統一への道なのです。

(六)「思想転向者」

    岡本言説の原罪観は、「堕落論」の概念ではありません。ヘンリー・シーセンと同じ「罪の本質」の概念です。この「性質原罪論」のフィルターを通して、文先生の「愛の病気」の御言(「自己中心こそが『堕落の動機』となった」)を見ているのです。それで、御言は動機(自己中心)を原罪だと述べていると強弁するのです。彼らは「堕落論」の原罪論を放棄した、いわば「思想転向者」であり、思想戦における敗北者です。 

二、「分子生物学」の観点からの「堕落論」批判

(一)「既存の遺伝説」と「血統の遺伝」の混同

    飯干氏はプロテスタント神学の立場から、内的な性質(精神性=罪への傾向性)に原罪があると述べ、統一原理の「堕落論」の原罪論(淫行、血統的罪)を批判し、また「サタンの血統」に関して、浅見定雄氏の「分子生物学」の観点から「珍説」だと揶揄し、「科学的に説明せよ」と批判します。しかし、「堕落論」でいう「罪の遺伝」とは、反対派が否定する既存の遺伝説ではありません。「罪を犯せば遺伝子が変わり」「罪が生物学的な遺伝情報として子孫に伝えられる」と言っているのではないのです。それは「堕落によって血統が変わり、サタンの血統が遺伝法則によって伝えられている」「原罪とは血統的遺伝的なもの、そうであるのは愛の問題以外にない」と言うのです。反対派は「既存の遺伝説」と「血統の遺伝」を混同しているのです。

(二)反対派が「珍論(オカルティズム)」と言う理由

    浅見氏は、霊的存在である天使長とエバの「性関係という行為の結果が血統(サタンの血統)として残るとは、古代人の考えならまだしも、分子生物学の時代の話としては呆れた新説である」(『統一協会=原理運動』132~133頁)と批判します。
    飯干氏も「統一教会の説く人類の悪魔血統説など、できの悪いオカルティズム」(『イヴは淫乱だったか?』141頁)と批判し、「天使は霊であって肉体がないのだから、性交は不可能である」(同、115頁)と言います。こう述べるのは、霊的存在である天使長とエバが性交して子供が生まれるのか、という反対派の見解に追従してのことです。
    これで、なぜ浅見氏らが堕落論を「珍論」というのか、その理由がよく理解できます。

(三)「サタンの血統」説を科学的に説明せよ

    「堕落論」は「堕落した人間は神の血統ではなくサタンの血統をもって生まれた」「悪魔の子孫」(『原理講論』102頁)と述べます。
    聖書も「あなたがたは自分の父……悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている」(ヨハネによる福音書8章44節)と述べます。飯干氏は、この「サタンの血統」説に対して「生理学的に証明せよ」と言って、次のように噛み付きます。

    「エバが悪魔と性交したので、エバが悪魔の血に転換した、という珍説をひとつ科学的に説明してくれんかね。それを生理学的にも医学的にもどうやって証明するつもりか?あんた方が科学を軽々しく口にすれば、科学が泣くというものだ。しかも、その悪魔の血が子孫に遺伝すると言うに至ってはひっくりかえる」(『イヴは淫乱だったか?』94頁)、「できの悪いオカルティズムである」(同141頁)

(四)道徳と原罪観

    そして、飯干氏は「人間には原罪がある。そのために人類は絶えず罪を犯すものである。それを人間に強く自覚させるキリスト教の原罪論は、さすがに道徳論として非常に価値が高い」(同141頁)と述べて、「性質原罪論」を持ち上げます。 岡本言説も、この主張の「ものまね」をして、統一教会の罪観は旧約的律法観で、「内的な精神性を重んじたキリスト教」の方がはるかに「道徳的」に高いと述べます。

(五)天使と人間の娘の結婚話

  ところが、飯干氏は、統一教会がいう創世記の「天使と人間の娘の結婚話」を取り上げ、これをいかに解明するかで、13世紀の神学の最高峰トマス・アクィナス(1225~74)はずいぶん悩んだと述べて、次のように論じます。

「彼は霊的存在である悪魔が人間の女性と性交し、いかにして妊娠せしめ、悪魔の子を生ますかについて、アウグスティヌスの論法を援用しながら、彼の著作『神学大全』で次のように論証した…『悪魔が人間の女を犯し、悪魔の子を生ますことは可能である。しかし、なぜ精液を持たぬ霊的存在である悪魔が人間の女を孕ますことができるのか。それは、悪魔は女色魔となり男からうけとった精液を、こんどは男色魔となって女の肉体の中に注ぐことができるからである』この論証と統一教会の論旨とを比較してみると、同じく荒唐無稽ながらもトマス・アクイナスのほうが、はるかに確固とした生理学的見解に立っていることが分かる。科学、科学と騒ぐ統一教会はこのトマス・アクイナスのツメのアカでも煎じて飲むがいい」(同116頁)

このように、「サタンの血統」説をめぐって、反対派は生理学的にどうの、科学がどうのといろいろ論じますが、それらの言い分すべてを聞いてみると、霊の理解で混濁したトマス説を引用した飯干氏だけが、反対派の神学思想から突出しており、「サタンの血統」概念の理解において、統一教会側の見解へ一歩近づいています。
    しかし、分子生物学の時代に、御言の文脈から「心情的血統」という言葉のみを抽出し、「サタンの血統とは『心情の血統』である」として、生理学(生物学)と無関係なものと強弁する頑迷な岡本言説は、無知蒙昧主義に陥っています。彼らこそ、トマスのツメのアカを煎じて飲まなければなりません。

    ところで、万人救済とは「血分け」を否定する「祝福」を言うのです。 

三、ルターが抱いた疑問点

    ルターは

「どうして神は、アダムが堕落するのを許したもうたのか。また、神は彼を堕落せぬように保つか、あるいは私たちをほかの裔からか、または清められた第一の裔から造ることができたもうたであろうに、どうして私たちすべてを同一の罪にけがされたものとして造りたもうたのであるか」(『ルター』松田智雄、223頁)

と述べます。 
    そして「神秘を探ることは、私たちのなすべきことではない。むしろ、この神秘を畏敬すべきなのである」(同)と言います。しかし再臨主の理性は、この神秘を解かなければならならないのです。また、フランシスコ・ザビエルに対し、鹿児島の住人が次のような疑問を提起したという話があります。

「確かに悪魔が存在し、それが悪の原理であり人類の敵であることはわかるが、それなら創造主を認めることができなくなる。何故なら、万物を造ったといふ善なる創造主が悪を造り出したといふのは矛盾だからである……もし創造主が人間を造ったと言ふなら、自分が造った人間が悪魔に誘惑された時、何故人間を保護せず誘惑されるのを黙認したか」(小堀桂一郎著『国民精神の復権』65頁)。

    これらの論難は、文先生が鑑定してつくった「堕落論」を知っている人なら、難なく答えることができるのです。(6月号につづく)  

 


「中和新聞」2009年1月号に掲載された【森三雄氏の特別寄稿】

 霊的集団「氏族協会」の書籍
『救済論の問題点』を暴く(下)
~プロテスタント神学の原罪論を盾に、色眼鏡で見た「堕落論」批判~

三、浅見定雄氏の批判と『救済論の問題点』の接点

(1)浅見氏の堕落論批判

「人間の『原罪』が遺伝しているという説は伝統的キリスト教にも確かにある。しかしここで私が指摘しているのは、エバとルーシェル、エバとアダムとの性的不倫という『行為の結果』が遺伝していると主張する『原理講論』の珍論のことである」(『統一協会=原理運動』137頁)

 浅見氏は、堕落論を「珍論」と批判しますが、その理由については具体的な明言を避け、あえて述べません。脱会説得を効果的に行い続けるための作戦なのでしょう。岡本言説の『救済論の問題点』は、浅見氏があえて黙した“理由付け”を具体的に述べ、堕落論を批判します。

(2)生物学的な「血統」概念

 浅見氏が「珍論」と指摘するのは、原罪がいかに始まり、それがいかに遺伝するのかという堕落論の教義についてです。それは、「原罪」と「遺伝法則」の関係に対するプロテスタント神学的な概念から来る疑念です。

①「精子と卵子」と血統

 文鮮明先生は精子と卵子について次のように述べます。

「皆さんが父母から受け継いだ命は、父の精子と母の卵子を受け継いだところから出発したのです。その卵子と精子が一つとなったところに、愛によって根が生まれて発生したのが、皆さんの子女です」(2007年3月号「ファミリー」7頁)

 このように、父母から子女への生命の連結、すなわち「血統」に対し、それは愛を中心として精子と卵子が一つとなることから出発したと、生物学的に述べています。
 ただし精子と卵子の生物学的次元の指摘だけでなく、さらに深く考察され、「愛によって根が生まれて発生した」と愛を強調しています。神様の血統に連結するか、サタンの血統に連結するかという問題は、この愛を認識しなければなりません。真の愛か、利己的愛か。科学はそこまで論じませんが、これは哲学や神学の分野です。
 岡本言説である『救済論の問題点』は、「御言の示す血統は心情の関係」(128頁)であると述べ、「『精子と卵子』といった『生物学的物質』即ち『生物学的DNA』を媒介としたものでない」(同上)と断定します。彼らはここでも御言を否定します。
 ちなみに、卵子の発見ついてビョレセン教授は次のように述べています。

「カール・エルンスト・リター・フォン・ベーアによる哺乳類の卵子の発見(1827年)により、男性中心主義的に女性を理解しようとするキリスト論の前提は崩れる。ここで父と母との機能が同等のものであるとしてみられる」ようになったのです(『マリアとは誰だったのか』122頁)。

 このように「卵子の発見」は、女性の復権にも、神学界にも大きな影響を与えたのです。
 文先生も「精子と卵子」の両方を述べます。そこに「両性の本質的平等」という神学思想を見ることができます。

②「血統」と「遺伝法則」

 また、文先生は血統と遺伝法則について次のように述べます。

「千代万代後孫が罪人になる善悪の実とは何でしょうか。これは血統的関係です。血統的に罪の根を植えておけば、遺伝の法則によって永遠に続くのです。そうであり得るのは愛の問題だけです。誤った愛が堕落の原因です」(『祝福家庭と理想天国Ⅰ』435頁)

 このように、「血統」と生物学的「遺伝法則」は一体不可分です。
 『平和神経』にも、「生命と愛が合わさって創造されるものが血統です」(126頁)とあり、また、第28回「真の神の日」で次のように語っています。

「生命を見ましたか?生命に触ってみましたか?生命体は見えるけど、生命は分かりません。触ってみることはできません。血統もそうです。血統は夫婦が愛するその密室、奥の部屋で結ばれるのです。そして、精子と卵子が出合って生命体として結合するとき、血統が連結されるのです」(1995年3月号「ファミリー」22頁)

 文先生の血統概念は、岡本言説のように「『心情的血統』か『生物学的血統』か」と二者択一的に問い、「心情」(愛)と「性関係」を分離するようなことはしません。文先生の説く血統とは、「愛」と「性関係」(生物学的な精子と卵子)が一体となって形成される「血統」の概念です。神様の血統、あるいはサタンの血統というその血統は、性関係を抜きにした「心情の関係」ではありません。ただし性関係と言っても、その血統連結は、禹明植集団における天法に違反する不倫による「血分け」などではありません。
 ところで、岡本言説が「心情的血統」の概念の根拠とする「サタンの侵犯を受けない心情的血統の回復」(『救済論の問題点』172頁)との御言は、神様を父と呼べる「本然の血統」(実子=イエス様)を語っているのです。岡本言説は、御言の中から「心情的血統」という言葉のみを抽出することで、血統の概念を曲解し、模糊化させるのです。

四、「二つの救済観」という批判について

(1)岡本言説は、両性の生命を抜きにし、「性的関係」と無関係に「神様の血統」を説こうとします。それが彼らの強調する「心情的血統」の概念です。この概念によって、個人的次元における神様との心情一体化だけを説き、それによって神様の血統に連結できると強弁するのです。この主観的観念論の見解は誤りです。
 まして堕落人間が「祝福」、すなわち「接ぎ木」(聖酒式による血統転換)を抜きにして、個人的次元でいくら努力(意識改革)しても堕落性は脱げません。また、完成期に上がって神様と心情的一体化をすることもできません。御言に「神の心情は、どこからか飛んで来るのではありません。血統を正さないというと、元から、心情の栄養分が、心情の血統がつながりません。…蕩減復帰は、血統を求めて、それから心情圏を求めていかなければなりません」(『本郷』209~210頁、『誤りを正す』156頁)とあるように、「まず血統を正し、しかるのちに、神様の心情に連結されて心身統一が成されるのです」(前掲書255頁)

(2)ところで、『救済論の問題点』は、「法廷論的贖罪観」(「原罪」と「堕落性」の分離)という考えは、「反対牧師対策」がその背景にあって、“救い”を強調せざるを得ないという必要性から生まれた救済観であると述べています(56頁)。
 しかし「法廷論的贖罪観」は、文先生が解明された真理による救済観です。何らかの条件(「必要な手続き」)で贖罪されるとは、「聖酒式」を言うのです。祝福とはアダムとエバの堕落前の状態に復帰する式です。聖酒式は原罪を清算し、サタンの主管圏から解放、釈放される「万人救済の儀式」です。
 聖酒式で、堕落の「経路」を反対に遡行して原罪を清算し、その後「堕落の動機」、すなわち「堕落性本性」の消滅は、自己犠牲の愛を実践することでなされていきます。蕩減復帰の原理から見て、「原罪清算」(経路)と「堕落性本性」(動機)を脱ぐ道は、同時でなく、分離され、先後の関係にあります。

(3)さて、岡本言説は『誤りを正す』の内容に対して、それを「万人救済論を否定する生物学的血統転換論」(160頁)であると批判します。
 しかし、聖酒式によって祝福家庭は「血統転換」しており、神様の血統圏(皇族圏と王族圏)にすでに入っているのです。一世も二世も“皇族”であり、救われています。四大心情圏と三大王権と皇族圏を完成するために、祝福家庭は人類史上、だれも歩んだことがない完成期を、真の父母様のご家庭に侍りながら歩んでいるのです。神様の血統圏の中の「祝福二世と直系の結婚」とは、皇族から王族に入っていくことです。
 ところが、岡本言説の信奉者たちは、この結婚のみを救いと曲解し、「万民救済論を否定する生物学的救済観」と揶揄します。しかし結婚は「血分け」ではありません。皇族と王族は共に「神様の下の一つの家族」です。祝福は万人救済です。法廷論的贖罪観とは祝福のことであり、岡本言説が揶揄する“生物学的血統転換論”とは、皇族と王族の結婚のことです。それゆえ、人類を救済する「二つの救済観」に対立や矛盾は一切なく、そこに深刻な問題もありません。

 五、岡本言説による、軽視できない稚拙な批判(堕落論への疑念)

(1)妊娠に至らない淫行

 『原理講論』の「堕落論」の原罪観に対して、『救済論の問題点』は「妊娠に至らない淫行」(118頁)を取り上げて、子供ができ“血統が生じるまで”は、“不倫な行為” がアダムとエバの間に何回あったとしても原罪と認定されないのでしょうか、と疑念を述べて批判します。
 『講論』を注視してください、堕落論は「動機と経路、およびその結果」を論述しているのです。一部のある行為だけを指して論じているのではありません。原罪という「堕落行為」(不倫関係を結ぶこと)は、アダムとエバの間の“肉的堕落”だけを指すのでなく、それより前にあった天使長ルーシェルとエバの“霊的堕落”をも組み込んでいます。また、「血統的な罪」とあるので、堕落行為の「結果」、出生する罪人も「原罪の概念」に含まれています。
 ゆえに妊娠に至らない「不倫なる行為」も原罪の定義の中(経路)にあるので、それは罪と認定されます。実際に、御言にあるように、アダムとエバはエデンの園から追い出される前に子供を産みましたか?追い出されてから子供を産みましたか?彼らは取って食べた時、エデンの園から直ちに追放されたのです(「祝福」76号=1993年春季号、 120~121頁)。

(2)生物学的血統につながらない「霊的堕落」

 天使長とエバの霊的堕落では子供はできません。一代限りです。エバだけの堕落であれば、容易に救済することができました。種であるアダムまでも堕落したので救いが延長してきたのです(『原理講論』111頁)。
 天使長ルーシェルとエバとの不倫関係ですが、天使長が誘惑しても、エバが「取って食べるな」との戒めを守り、天使長と相対基準を造成しなければ、二人の間に愛が現われません。したがってエバは一線を越えず、天使長は片思いに終わり、サタンの堕落性本性が人間の中に入ってこなかったのです。
 その結果、サタンに「自己中心の動機」(堕落性本性)があったとしても、動機でとどまり、罪を犯すに至りませんでした。言い換えると、「動機(堕落性本性)が動機で止まり罪にならなかった」、「天使長はサタンにならなかった」のです。天使長とエバの「堕落行為」の結果、サタンの性質(堕落性本性)が人間に入ってきたのです。
 堕落の結果、エバの心情が汚れました(「本末転倒の論理」でない)。言うまでもないことですが、天使長の堕落性本性は「心の中の動機」であって、原罪(淫行、外的な行為)ではありません(「原罪」と「堕落性本性」は同じでない)。「意思が結果の観念をもっていた」としても、そうだというのです。『原理講論』が論述するごとく、すべての罪は原罪から来るのであって、原罪の前に多くの天法に違反する「罪」があったのではありません。
 御言では、天使長ルーシェル(サタン)の自己中心的な「堕落の動機」を「悪と罪の源」と指摘しています(『祝福家庭と理想天国』Ⅱ268頁)。この「源」(動機)は、神様が悪なるものとして創造されたのではなく、本来、善として創造されたものが悪なるものになったのです(一元論)。それでは、なぜ善が悪になったのかと言うと、それは「愛」によって引き起こされたのです。
 『原理講論』は、「堕落性本性が生ずるようになった根本的動機は、天使長がアダムに対する嫉妬心を懐いたところにあった」(122頁)と述べます。この嫉妬心に関して、「創造本性から生ずる付随的な欲望は、人間の発展をもたらす要素とはなっても、決して堕落の要因とはなり得ない」(123頁)と述べています。

(3)「抱擁や接吻」について

 岡本言説は、「一線を越えるという行為(淫行)の前に、既に抱擁や接吻等、多くの天法を違反する行為の連続があった」(『救済論の問題点』122頁)と述べ、ゆえに淫行は「原初の罪」と言えないのではないかとの疑念を主張します。そして、「『原罪』の前に、沢山の『罪』が並んでいるという、とても奇妙な論述となり、『原初の罪』の定義とも矛盾する結果となってしまう」(同上)のではないかと言います。
 『原理講論』は、天法に違反する血統的な罪(淫行)を「原罪」と定義します。「一線を越えること」を目的とした天使長の「抱擁や接吻」(122頁)は、血統的な「原罪」を犯す過程にあり、まだ違反していないにせよ、創造目的(神様のみ旨)に反しており、天法に違反しようとしているので問題とされます。しかし「一線を越えず」堕落行為に至らない場合は、天法に違反する原罪(原初の罪)の“未遂”に終わり、天使長の動機(堕落性本性)が人間の中に入ってこなかったというのです。その場合は、エバと天使長の救いは容易です。

(4)「淫行関係」と「血縁関係」の概念の混乱?

 岡本言説では、『原理講論』に対し「淫行関係を結ぶことが、あたかも血縁関係を結ぶことと同じであるかのように表現しています。この表現が血統の概念に、大きな誤解をあたえてしまっている」(『救済論の問題点』132頁)と批判します。すなわち、人間は「アダムとエバの後孫」であり、「ル-シェルの生物学的血統」のもとに生まれたのではないというのです。なぜなら、エバは「(肉体の)精子を持たないルーシェルの子を身ごもることは出来ません」(134頁)とし、人間はサタンとは血がつながっていないと言うのです。
 まず、なぜ『講論』にはそのように論述されているのかを考察すべきです。エバはサタンと愛の因縁を結び、サタンの妻となりました。そのサタンの妻となったエバが、今度はサタン的な愛でアダムと関係を結んでアダムを堕落させたのです。この「淫行関係」の結果、アダムを“サタンの息子”として生み出したというのです。
 これは、御言に「堕落の責任は、サタンを中心として、エバから始まり、アダムに移りました。すなわち、偽りの生命の種を受けたエバの立場からすれば、神様に代わってサタンが父の位置でエバと(一体となって)、アダムを生んだ立場となり、堕落が成されました。こうしてエバは、天使長とアダムを各々父と息子のような立場に立てて堕落した」(1992年6月号「ファミリー」58頁、『誤りを正す』115頁)とある通りです。すなわち、サタン的な愛と性の諸関係による堕落行為によって、サタンとアダムとに「父子関係」を形成させて、サタンと「血縁関係」を結んだというのです。
 文先生は、「愛には縦的愛と横的愛があるのです。父子関係は縦的愛であり、夫婦関係は横的関係です。縦的愛は血統的につながり、夫婦関係は血統的につながりません」(『訪韓修練会御言集』12頁)と述べています。この御言のごとく、サタンとアダムの「父子関係」は、縦的愛であって血統がつながるのです。『原理講論』には、なぜ「霊的堕落と肉的堕落という血統的な罪」と定義されているのでしょうか。また、なぜ「霊的堕落」と「肉的堕落」の2つを分離せずに一緒にして定義しているのでしょうか。そのことを理性的に考察すべきです。『原理講論』の原罪の定義は、サタンの血統にいかに連結したのか、というその「経路」を示しているのです。
 岡本言説の「心情的血統論」を盾にした「生物学的血統観」への批判の誤りは、愛と性関係を分離して見ているところにあるのです。文先生の説く血統概念は、愛と性関係を分離していません。上述のごとく、サタンの利己的愛と性の諸関係による血縁関係の形成経路を見るべきです。
 アダムとエバは、堕落人間のように「原罪ある人間」として生れた存在ではありませんでした。原罪のない「神様の息子と娘」として生まれましたが、堕落することでアダムとエバの血統は、サタンの血統となったのです。

(5)性的行為を「淫行」と呼ぶ表現は不適切?

 岡本言説では、「アダムとエバの堕落行為(肉的堕落)をなぜ『淫行』というのか、その表現は適切でない、今流でいえば『婚前交渉』ということで、現在の刑法では、倫理的には問題があるとしても、それほど重罪とされるわけではありません」(『救済論の問題点』121頁)と述べて、堕落論を批判します。
 しかし、エバがサタンと愛の因縁を結んで“サタンの妻”となり、その妻たるエバが、サタンと一つとなって、今度はアダムと関係を結び、さらにサタンがアダムと一つになってエバと関係を結ぶことは、「淫行」「淫乱」と表現する以外にありません。むしろ「婚前交渉」と表現する方が不適切です。また、天使長ルーシェルとアダムとエバの間における「性的関係」(霊的堕落と肉的堕落)という行為は、そこから「サタンの血統」が出発したので“重罪”です。
 文先生は「私が糾明した原罪と堕落の曲折は、人間の最初の家庭で起こった天使長との不倫の事件でした」(『天聖経』宇宙の根本、1863頁)と述べ、「天使長と不倫の関係を結んだというのです。これが宇宙を破綻させた根本原因になったのです」(『天聖経』罪と蕩減復帰、1231頁)と明言しています。
 このように、天使長との不倫の事件が「宇宙を破綻させた」ので、これ以上の重罪はないというのです。
 しかし岡本言説では、「『動機』や『思い』といった精神面より、やはり、違法『行為』という外的行為面のみが強調されてしまう傾向にある」(126頁)と批判し、「より本質的問題は、性行為を通じて子孫に伝播した、『未熟、かつ自己中心であった性質(堕落性本性)』である」(121頁)と述べて、アダムとエバの性質のみを問題視することで、サタンの罪(淫乱)を隠蔽しようとします。
 ところで、「性を通して子孫に伝播した」と言いますが、その伝播した「性」が問題なのです。結局のところ、岡本言説も原罪がどのように「伝えられていったか」ということになると、ホーダーンが指摘しているように、アウグスティヌスや堕落論の教義に頼らざるを得ないのです。
 結論として、未青年の段階で誘惑されて犯したアダムとエバの罪(堕落行為)はどのように判定されるのでしょうか。それは「人間の罪は、サタンのように徹底的な刑罰と破壊の対象ではなく、<あわれみ>を誘うようなところがあり、したがって純粋な刑罰だけでなく同時に赦免や救済も聞かせられるべき対象なのである。それは神の刑罰の宣告が、へビと、アダムとエバに対し、区別して語られていることに暗示されている」(『キリスト教組織神学事典』教文館、268頁)ということです。サタンの罪(淫乱)はこの「事典」にあるように、自発性にもとづく破壊的な罪なので重罪です。

(6)御言の「原罪観」は、プロテスタント神学に近い?

 『救済論の問題点』は、『み旨と世界』から「愛の病気」のみ言葉を取り上げ、文先生の思想は「『原理講論』の(不明瞭な)表記をもとに構築された現在の統一教会の『原罪観』よりも、むしろ従来のキリスト教(特にプロテスタント神学)により近い概念であることが分かってきます」(111頁)と強弁します。
 ところが、この「愛の病気」の御言を注視すれば、文先生は「自己中心こそが『堕落の動機』となった」(同、110頁)と述べているのであって、「原罪」だと言っておられるのではありません。御言をそのように解釈するのは、プロテスタント神学の原罪観が正しいという“色眼鏡”で見ているからであって、むしろカトリック神学により近い概念であるというべきです。

(7)統一教会の罪観は旧約的律法観?

 岡本言説は、次の新約聖書の聖句を引用して、統一教会の罪観は「旧約的律法観」であると述べます。「情欲をいだいて女を見る者は心の中ですでに姦淫をしたのである」(マタイによる福音書5章28節)と語られた新約聖書の『み言』をも“公然と否定する ”結果となり、より内的動機や精神性を重んじたキリスト教の『罪観』より、はるかに次元の低い、まさに時代を逆行した旧約的律法観」(『救済論の問題点』100頁)と批判します。
 これは、プロテスタントがカトリックの「行い」による功徳思想を外的な律法主義と批判したのを、統一教会に置き換えて語っただけのことです。
 プロテスタントの罪観は、「行い」を否定して内面を見つめようとします。それは一面において優れたところと言えますが、しかし他方において、社会性がないと批判されています。
 また、イエス様が言われたというその聖句(姦淫の思い)は、堕落人間を対象として言われたのであって、裸でいても恥ずかしくないよう創造されていた、純潔で無垢なアダムとエバにはなかった「思い」です。しかし、堕落人間にとっては、いかに努力したとしても、また、キリスト者になったとしても消滅させることのできない「思い」です。
 パウロが「心と体の分裂」を呻吟したように、堕落人間には、後から後から「肉的な思い」(罪)がわき起こってくるのです。それはなぜでしょうか?サタンの血統を継承しているからです。われわれは「祝福結婚」によって血統転換し、さらに、自己犠牲の愛を実践しない限り「心情革命」(「心の革命」)は、到底なし得ないのです。

以上

 


「中和新聞」2009年1月号に掲載された【森三雄氏の特別寄稿】

 霊的集団「氏族協会」の書籍
『救済論の問題点』を暴く(上)
~岡本言説は原罪(淫行)隠しのサタン弁護論~

はじめに

 霊的集団「氏族協会」が、「祝福二世相談室」名で『救済論の問題点』を出版しました。その内容は、岡本達典氏の言説に基づくものです。
 彼らは、『霊的集団「氏族協会」の誤りを正す!』(光言社、2006年1月25日出版、以下『誤りを正す』)に反論できず、06年4月12日に解散宣言し、しばらく潜伏していました。今回の出版の目的は『誤りを正す』への反論にあります。しかし『誤りを正す』の「原罪」と「血統」以外の本論23項には一切触れることができず、反論していません。
 

 『誤りを正す』は、文先生の御言と『原理講論』が一致するという視点から原罪と血統について論じています。ところが岡本氏は、御言と『原理講論』の「堕落論」が食い違うと言って批判しています。

 今回の『救済論の問題点』では、不一致を主張するばかりか、『原理講論』は御言に対する「一つの解釈」(23頁)に過ぎないとまで述べます。彼らはプロテスタント神学の諸説をかき集め、「堕落論」の批判に焦点を絞り、相変わらず「原罪の本質は自己中心の動機としての堕落性本性」(120頁)と繰り返し主張しているに過ぎません。
 岡本氏と論戦した際、私は岡本言説を「原罪(淫行)隠しのサタン弁護論」(『続・文鮮明師の著作権』128頁、以下『著作権』)と喝破しましたが、今回の書はそれを裏づけています。原罪とは、心の動機(原因)ではなく、「不倫関係を結んだ」結果をいうのです。文鮮明先生は次のように語っています。

「堕落は血統の不貞的動機から始まった事件でした。それゆえ堕落の結果が今日まで原罪として遺伝してきているのです。
 先生のときになって、堕落が愛によりもたらされた結果であるという事実を明らかにしたことは、驚くべきことです。これは歴史的背景を通して理論的に体系化されたものであり、否定できない内容です」(『祝福家庭と理想天国Ⅰ』436~437頁)

 このように、堕落は「血統の不貞的動機」から始まった事件ですが、原罪は「愛によりもたらされた結果」である「人間始祖が犯した霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪」(『原理講論』121頁)を言うのです。自己中心(堕落性本性)は動機であって、原罪ではありません。文先生は次のように述べています。

「人類の願いは何かというと、堕落の仮面を脱ぐことです。堕落の仮面とは何でしょうか。血統が変わったというのです。
 血統の堕落とは何でしょうか。男性と女性が性関係を誤ったということです。誰を中心としてですか。サタンを中心としてです」(『天聖経』宇宙の根本、1906頁)

  「男性と女性が性関係を誤った」とあるように、『原理講論』の原罪と性関係に関する理解は、文先生の御言と一致しています。
  聖書に、アダムとエバが「善悪を知る木の実」を取って食べて堕落したとあります。この「木の実」は精神的要素である自己中心でしょうか、それともエバの生殖器でしょうか。原罪が何であるか、原点に立ち返って考えてみれば分かることです。文先生は「善悪の実は、エバの生殖器のことをいうのです」(『天聖経』宇宙の根本、1871頁)とはっきり語っておられます。
 ところがプロテスタント神学は、食べた「行為」よりも「戒め」を守らなかった動機(精神性)を心理分析し、心の中に原罪があるととらえます。岡本言説は、このプロテスタント神学の視点に立って「堕落論」を批判してきた“反対派の主張”の焼き直しにすぎません。
 
 原罪理解において、原因(動機)と結果を混同してはなりません。なぜなら「不倫関係を結ぶこと」を原罪と思わず、軽視するようになるからです。もちろん自己中心の心の動機も問題です。私たちは自己犠牲の愛を実践し、心情革命をすべきです。

 『救済論の問題点』の結論は、統一教会の救済論は「いまだ不十分」で、原罪や血統について「誤って信じられている部分」があると言うことにあります。彼らは、御言を綿密詳細に整理分析し、不十分な『原理講論』に代わり、新たに「成約原理」(?)が登場すべきとします。不遜にも、自分たちの言説が「成約原理」と言いたいのでしょう。

 一、『原理講論』について

(1)御言と『原理講論』の関係
 
 文先生は『原理講論』を普遍的真理だとし、それを「先生がつくった御言の剣」「天的な宣言」「神様の心の中にある主流の憲法」(『著作権』145頁)と述べています。『原理講論』に対する先生の認識は、今も昔も一貫して変わっていません。
 このように、御言と『原理講論』は一体です。真理であるのかないのかの判断は、真の父母であられる文先生が「どう言われているか」にあります。
 
(2)存在論的な「神概念」

 『原理講論』は、最初に神(究極者)を存在論的に論じます。神学の神学たるゆえんは神をいかに認識しているかにあります。実際、神学の多くの問題点の解決は、神をいかに認識しているのかにかかっています。
  ティリッヒは『組織神学』で、神概念を「存在自体」「存在の力」であるとし、統一原理と同様に存在論的にとらえています。そして、存在論的な神概念こそ「神論」における多くの問題と混乱を除去することができると述べています。
 また、この神観こそが「神を超自然の領域に幽閉している神学」より「宗教的である」と言います。「存在自体」としての神概念は、カント的な神認識すなわち「神を道徳的規範理念(一存在)にするか、認識の基礎に信仰をおく不合理な信仰主義(fideism)によって超自然的な啓示を成立させる」という恣意的な神理解ではありません。
 カント的原理は、究極的には神の自由と主権を保障するものの、「存在自体」としての神概念を見失うものでしかありません。ティリッヒは、存在に基盤を持たない一切の観念を斥けるのです。

  現代社会は、既存の価値観が崩壊し、善悪の基準が分からず、社会秩序と家庭崩壊の危機に直面しています。この危機を救うために、神を存在論的にとらえ、キリスト教神学を再解釈し、体系化しようとしたところにティリッヒの功績があります。まさしくこの神概念の把握は、統一原理の神論を受容させるための洗礼ヨハネ的使命を担った神学であったと言えます。
 
(3)「8つの分野でチャンピオン」
 
 『原理講論』の総序に「真理の一部分」とありますが、その一文をもって、普遍的真理の側面を見限ってはなりません。
 『原理講論』には、聖書の奥義を解明し、宗教や思想を統一する内容があります。 文先生は『平和神経』13番、16番のメッセージで、レバレンド・ムーンは、
①「神様を最もよく知るチャンピオン」、
②「サタンを最もよく知るチャンピオン」、
③「人間を最もよく知るチャンピオン」、
④「霊界を最もよく知るチャンピオン」、
⑤「イエス様を最もよく知るチャンピオン」、
⑥「聖書および各宗教の経書の核心内容を最もよく知るチャンピオン」、
⑦「人類歴史を最もよく知るチャンピオン」であり、さらに、
⑧「真の家庭の価値のチャンピオン」の、8つの分野でチャンピオンであると語っています。

  『原理講論』には、文先生がチャンピオンであると言われる内容があるのです。ところが岡本言説の『救済論の問題点』は、『原理講論』が聖句を多く引用していることから、「まるでキリスト教の“一つの派”にすぎないかのように見える」(26頁)と述べ、宗教を統一し得る内容がある点を見ようとしません。聖句を多く引用したのは、キリスト者に『原理講論』が再臨主の神学思想であることを証しせんがためです。

 文先生は、「堕落論」に対して次のように述べています。
 「どこで天国と地獄が分かれるか調べてみましょう。空中ですか?どこですか?まさに皆様の生殖器です!深刻なことです。これが天地をひっくり返しました。この事実をだれが否定できますか?レバレンド・ムーンが発表した原理の本の堕落論に、説明がなされています。疑問に思えば神様に尋ねてごらんなさい。皆様としては夢にも想像できない内容と理論をもつて、体系立てておいたレバレンド・ムーンの原理の本に、だれしも反対することはできないのです」(『祝福家庭と理想天国Ⅰ』57頁)
  岡本氏は「文先生の御言が絶対的基準である」(『95ヶ条+13の提題』57頁)と言いつつも、他方では「堕落論においても、完璧なものであると信じることは危険であり、むしろ盲目的行為であるといわざるを得ない」(岡本編『成約原理解説』第1巻、57頁)と述べます。これは二枚舌です。彼は御言に従わないだけでなく、それを否定しているのです。

(4)『原理講論』を修正できる主人公

 岡本氏は、「真理の判断は『原理講論』と『文鮮明先生の御言』の、どちらに重点をおくべきか?」(岡本編『95ヶ条+13の提題』)と述べます。『救済論の問題点』でも「『原理講論』は、あくまでも文先生の『御言』の一つの『解釈』であり、『組織神学的解釈』なので、文先生の直接語られた『御言』のほうに、より宗教的権威がある」(23頁)とし、御言と『原理講論』の不一致を語ろうとします。

 真理の判断基準は御言ですが、前述のように『原理講論』は「先生がつくった御言の剣」なのです。どちらも文先生の御言であり、「あれかこれか」との問題設定自体が誤りです。文先生の御言自体に対立や矛盾が内在するのではありません。人の主観が対立や矛盾を生み出すのです。
 仮に『原理講論』の定義や解説に誤りがあるとしても、勝手に修正できません。修正すべき点があれば、それをするお方は文先生であり、それ以外の人ではないのです。
 文先生は、「『原理講論』を修正することができる主人公は私しかいません。それを知っていますか」(『天聖経』宇宙の根本、1722頁)と明言しています。

(5)鍵を持つ人は?

 『救済論の問題点』は「教祖の語る内容(啓示)は、学問的に体系付けられたものではなく、時として『比喩』や『象徴』『暗示』といった、『詩的』で『難解』な言語による表現が多く含まれています」(20頁)とし、「合理的、かつ整合性のある解釈」のために「神学的作業」が必要であると述べます。そして、比喩や暗示で語られている部分を解くために「鍵」があると言います。その鍵を持つ人は、岡本氏自身であると言いたいのでしょう。しかし文先生は次のように語っています。

 「愛する世界指導者の皆様、歴史上、いまだかってなかった位置で、人類をサタンの束縛から救い、天国へと導いてくれる鍵を持って来られるかたが、正に今、皆様の前に立っているレバレンド・ムーンです」(『平和神経』329頁)

  さらに、自分が真理を解いたと大言壮語する人に対し、文先生は

「自分たちが原理を解いたというのですか?わたしが解説してあげなければ、何の話か解くことができません。何の話かわからないのです」(「ファミリー」07年4月号、44頁)

と忠告しています。

(6)「真理の一部分」について
 
 『原理講論』総序に「真理の一部分」とあるため、『救済論の問題点』は「『原理講論』が、再臨主である文先生の思想を組織神学化した最終的な教理書ではない」(27頁)と断言します。
 劉孝元先生が、なぜ「真理の一部分」と記したのかを考えなければなりません。それは、不足面や部分性を指摘し、『原理講論』を批判することではありません。総序には、引き続き「深い真理の部分」の発表を待ち望むとあり、もし『原理講論』に表現上の誤りがあれば、それは弟子(著者)の責任だというのです。
 それは、文先生が書いたものを批判すれば天法に引っかかり、批判者はそれ相応の蕩減を受けるからです。それで著者が書いたとし、著者が責任を持つというのです。それは批判者にとっての救いです。その配慮を、批判者たちは知らなければなりません。
 「真理の一部分」の表現は、『原理講論』に「保留にされている真理」があることを意味します。その保留部分と『原理講論』が一体となって、完全な真理となるのです。

二、「原罪」に関する神学的諸問題

(1)原罪を探求する意義

 原罪とは何か? そのとらえ方の違いが、救済観の相違となります。その意味で、原罪論は教義の核心と言えます。
  『原理講論』は、天使長と人間始祖の「不倫な関係」(淫行)が原罪とします。この原罪論に対し、日本共産党は「珍論」と嘲笑し、浅見定雄氏は祝福結婚による血統転換は「血分け」と批判し、飯干晃一氏は「人類の始祖がサタンと性交したと強弁するところから、統一教会の邪悪がはじまる」とします。
 
 岡本氏はこの反対派の「堕落論」攻撃の戦略から、何らかの影響を受けたのでしょう。それで、プロテスタント神学の原罪論(自己中心)が正しいと強弁し、「堕落論」を批判するのです。
 私たちは、この一切の批判を放置せず、真摯に応答し、何が真理であるかを鮮明にしなければなりません。それは、現代人がフリーセックスの奴隷となり、背倫の渦の中に溺れて家庭を崩壊させ、地獄に直行している現実があるからです。人間社会のサタン的な淫乱の弊害を一掃し、彼らを救済しなければなりません。 罪の根が何であるかを究明し、それを清算しなければなりません。そこに「原罪とは何か」を解明する目的があります。

 カール・バルトは牧師でありながら社会民主党に入党しました。しかしその後、バルトは、社会民主党が聖書にある罪認識に欠けていることに気づきました。文先生も、悪や罪の源を解明した堕落論の重要性を次のように語っています。

 「これからこの世界問題を解決して、人類の道徳問題をすべて解消させるためには、堕落論がなくてはならないのです。堕落論なくしては人間の問題が是正されないのです」(『天聖経』成約人への道、1615頁)

(2)「原罪論」と血統に対する争点

①日本共産党の見解

 日本共産党は『原理講論』を珍無類な聖書解釈とし、堕落論を批判します。
  「統一協会のように、蛇の正体が天使であり、姦淫によって堕落したといった珍論は、世界のどんなキリスト教の異端派にもない解釈であり、聖書そのものにまったく根拠をもたないつくり話にすぎない。『原理講論』を、まともなキリスト教徒が一笑に付して、相手にしないのももっともである」(『原理運動と勝共連合』123頁)
 「姦淫によって堕落した」との主張は、「世界のどんなキリスト教の異端派にもない解釈」であると言うのです。共産党の言動が常にそうであるように、これは戦略的な文章に他なりません。

②キリスト教の「原罪観」と「原罪の遺伝」について

 自由主義神学は、搾取や抑圧や差別、それに非人間的・反民主主義的な独裁体制などを罪と見て体制改革を主張します。このような社会説は、共産主義の革命運動の戦略戦術に利用されます。体制が罪ではなく、罪がそのような体制をつくり出すのです。自由主義神学は社会の諸悪の根源となった原罪に対して無関心です。

 原罪という言葉を最初に使ったのはアウグスティヌスです。
 彼は次のように考えました。

「アダムの罪は、人類の末端にまで及んでいる。子孫は、性を通して生まれるがゆえに、性は二重の意味において罪の根源となっている。
 すなわち、一人ひとりの人間が、性を通して生まれたということが、すでに罪に満ちていたし、罪を犯す傾向性も、実は先天的な弱さとして、受けつがれてきている」(ホーダーン著『現代キリスト教神学入門』46頁)

 プロテスタント神学は、人間の病の根源を「精神的なもの」(貪欲、傲慢、自己中心)ととらえます。しかしそれがどう始まり、どのように伝えられるのかという点になると、ホーダーンは「アウグスティヌスの、アダムとその罪の遺伝についての教義を学ぶ必要性がある」(同)と指摘し、「罪の精神性とでもいうべきものが、生物的なものへと変わっていったというように考えられる。罪の心理的分析と、その生物的遺伝的な側面の、どちらに軍配をあげ、どう調和するかということは、容易なわざではない」(同)と述べます。
 このように、どう調和するのかは容易ではありません。原罪を精神性ととらえるか、生物的遺伝的ととらえるのかといった問題から、キリスト教神学は二分され、一方をとり他方を否定する問題が起こりました。プロテスタントは信仰義認論の立場から生物的遺伝説を退け、カトリックはマリアの「無原罪の御宿り」の教義の中に、それを見るのです。

(3)カトリックの「原罪論」

①カトリックの「汚れなき懐胎」説

 ローマ教皇庁立大学のカーリ・E・ビョレセン教授は、論文「カトリック神学におけるマリア」(『マリアとは誰だったのか』)で次のように述べます。

「汚れなき懐胎という考え方の前提をなしているのは、原罪は父親の生殖行為からくるというアウグスティヌスの教説である。このため、理性的な魂が吹き込まれる瞬間にインフェクチオ・カルニス〔胎児感染〕が起こる。…キリストは、人間化の際の聖霊の働きにより、この感染から免れる…。男性中心主義の生物学によれば、原罪は、能動的な役割をはたす父親によってもっぱら伝えられる」(126頁)

 この「原罪は父親の生殖行為からくる」との学説は、統一原理の原罪理解と同じです。またこの原罪論と「汚れなき懐胎」説は、イエスがなぜ無原罪として誕生されたのかという重要な神学問題に関連します。

②中世の「スコラ神学」

 次に、スコラ哲学者らのマリア論における原罪観の諸説を見てみましょう。

 「8世紀(ダマスクスのヨアンネス)より、マリアはその母性のゆえに原罪の汚れから清められたとするのが適切だとみなされるようになる。
 主要なスコラ哲学者たちは、マリアは人間として普遍の懐胎により胎児感染を引き起こしたが、つづいて償いの介入により聖化されたのだという見解をいだいていた。
 この介入は2段階で成就される。まず、母胎内で、――聖化の瞬間…肝心なのは、どのようなものであろうとアクチュアルな罪すべてからの解放であった。
 これらの教父たちによれば、エレミヤやバプテスマのヨハネもイン・ウテロ〔子宮内〕で聖別されているという。もっともただ神の恩寵を失うような大罪からだけではあるが(エレミヤ一・5〔私はあなたを母の胎内につくる前から…〕/ルカ一・15)。
 第2段階とは、マリアがキリスト懐胎の瞬間に聖別された(ルカ一・35)ことだという。この瞬間、彼女から原罪は完全に駆逐された」(ビョレセン著、同)

  カトリックの原罪理解は、「性質」(堕落性本性)とは違って、『原理講論』と同じです。また『原理講論』の「原罪の遺伝」(サタンの血統)という説を「人間として普遍の懐胎により胎児感染を引き起こした」の個所に見ることができます。また「アクチュアルな罪すべてからの解放」「イン・ウテロ〔子宮内〕で聖別されている」との説を、「タマルの胎中復帰」の原理の中に見るのです。

 岡本言説のようなプロテスタント神学を代弁する見解では、「原罪の清算」と深く関係する「タマルの胎中復帰」の意味する「原理」を解明することはできません。せいぜい「種」は心情で、「胎内」は聖霊であると述べ、客観的存在を認識しない主観的観念論の見解でとどまります。そして、「胎児感染」や「子宮内」聖別、「種」を説くのは生物学的な「血分け」理論と言って揶揄するぐらいの程度でしょう。

 ビョレセンは、カトリック神学の「インフェクチオ・カルニス〔胎児感染〕に先だつ介入という考えは、マリアの懐胎の祝日と結びついて生れたものでもある。これは11世紀末、英国で普及し、12世紀にはヨーロッパ全土に広がった」(同)と述べます。この原罪論は、「生殖」すなわち汚れという観念が前提となっています。

(4)大木英夫氏の原罪解説

 「原罪という語はアウグスティヌスによって用いられた概念であるが…本来の意味は<遺伝的な罪>、<相続された罪>であって、堕罪したアダムとエバから生殖作用を媒介として代々相続された罪をいうのである」(『キリスト教組織神学事典』268頁)

 これは統一原理の性関係による血統的、遺伝的な罪という原罪論それ自体の聖書の解釈と言えます。堕落論は、共産党が言うような、まともなキリスト者が相手にしない、世界のどんなキリスト教の異端派にもない「珍無類の聖書解釈」ではありません。

 


  最近、禹明植集団が『祝福二世相談室』を名乗り、祝福二世に対する勧誘を行っています。

  これは、本部が設置した「二世の信仰と祝福問題に関する『相談室』」とは全く関係ありませんので、間違って連絡したりすることのないように注意して下さい。

 禹明植集団が『祝福二世相談室』の名前で行っている活動

  • ホームページ『祝福二世相談室』
  •  書籍『救済論の問題点―統一教会の救済観とその神学的課題―』

 上記は、禹明植集団として、統一教会を除名された者を中心として行っている活動であり、以前は『氏族協会』を名乗って活動していました。

 彼らは、韓国家庭連合を除名された、自らを“庶子”と偽証する禹明植をメシヤ、第4アダムと主張し、その息子をメシヤの後継者であると信奉しています。
 また、統一教会を除名され、この活動の中心となっている人物は、自らを禹明植とその息子の「洗礼ヨハネ」であると自称して、各地で講義やセミナーを行っています。そのセミナー等に勧誘することが彼らの目的ですが、それを隠蔽して、あたかも2世の救済のためにやっているように偽装しています。
 特に今、彼らはメシヤの使命が禹明植の二世(息子)に移行していると信じていることから、祝福家庭の二世を狙って、このような活動を行っています。 彼らはみ言の真意をねじ曲げて原理に反する解釈をし、「祝福で原罪は清算されない」「(文先生とは別の)第4アダムによってこそ原罪が清算される」などと主張している、原理破壊集団、祝福破壊集団です。

 決して上記のような活動に誤導され、巻き込まれることのないようにご注意下さい。 なお、禹明植集団が「氏族協会」を名乗って活動していたころ、彼らの非原理的な主張に対して、2006年1月25日、森三雄氏、可知雅之氏、竹内清治氏の3氏が共著『誤りを正す』(光言社)を出版して彼らの誤りを正すと、彼らは反論できずに同年4月12日に解散宣言をし、ホームページも閉鎖して、その後、息を潜めるようになりました。

 彼らの主張の誤りについては本書籍をご参照下さい。

記事:広報局

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